かつて、ある会社の社長を務めていた頃、社員とのコミュニケーションを図るため、

毎月、給料袋に私からのメッセージを同封しておりました。

今回、思い立って以下にその抄録をまとめました。

読み返してみますと同工異曲の内容が少なくありません。

また時の流れがあり話題のズレも感じます。

ホームページへの書き込みを躊躇したい気持ちもありますが、まぁ私の頭中の変遷とお見逃し下さい。

2002年11月 幹

 1.1985年7月 はしがき 23.1989年7月 名残の雪
 2.1985年8月 視点 24.1989年9月 豆腐屋のラッパ
 3.1985年9月 一時に賭ける 25.1990年3月 卒業は始まり
 4.1986年2月 医者と患者 26.1990年4月 忙中閑
 5.1986年5月 タンポポの花 27.1990年5月 真打ち
 6.1986年7月 かんにんの四字 28.1990年9月 緑陰にて
 7.1986年9月 エリマキとかげ 29.1991年2月 藪入り
 8.1987年月 おせち料理 30.1991年4月 ランの鉢
 9.1987年2月 三年先の稽古 31.1991年7月 スピーチ
10.1987年3月 入試 32.1991年10月 なれ?
11.1987年5月 33.1992年1月 問題意識と工夫
12.1987年9月 生死を分けた十五段 34.1992年3月 肝心(かんじん)・要(かなめ)
13.1987年11月 一期一会 35.1992年4月 マナー
14.1988年2月 おかめ傍目はちもく八目 36.1992年6月 なまはげの意見
15.1988年4月 故郷で 37.1992年8月 ペットとともに
16.1988年6月 怪我と弁当は自分もち 38.1992年9月 身近な省資源
17.1988年9月 ゆとり 39.1992年11月 西安の旅
18.1988年11月 韓国を訪問して 40.1992年12月 太地喜和子さん
19.1988年12月 パン屋の店先で 41.1993年4月 接客の基本
20.1989年3月 車椅子のつぶやき 42.1993年6月 自分をみつける
21.1989年4月 天行は健なり 43.終わりに
22.1989年5月 観桜会  

1. はしがき

1985年(昭和60年)7月

“今は今しかない、今はもう来ない、今を大切に生きよう!”
というのは私のモットーです。時は誰にも等しく過ぎてゆきます。その時々を懸命に生きようと凡々と生きようとそれは人それぞれの生き様です。しかし私は平凡に時を過ごして後で「あの時、こうしておけば良かったなぁ」と後悔することのないように今この瞬間を生きたいと願っています。
この度、ご推挙により社長に就任いたしましたが「今を大切に」という気持ちで努力するつもりです。そしてこの機会に折々の私の思いをメッセージとして毎月給料袋に添えて皆さんに届けることにしました。参考にして下されば幸いです。
ご意見なり感想がありましたら遠慮なくご返事をいただきたく思います。

2. 視点

1985年(昭和60年)8月

書斎やリビングルームをいつもキチンとしておくのは手間暇かかるものです。届いた新聞や手紙、雑誌などがいつのまにか机の上を雑然と占領しています。時々思い立って壁掛けをとりかえたり、花の鉢の位置を変えたりします。すると部屋の様子が斬新に感じられようになります。毎日生活している部屋の中でも変化がなければ、殆ど何も見ていないのかもしれません。
 日本で見る世界地図には日本が中央に,太平洋が右に大きく広がり、左にアジア大陸が見られます。この地図で育った我々は日本を中心に世界を見ているのです。しかしアメリカで見る世界地図はアメリカ大陸が真中に描かれていて、最初見た時はこれが世界地図かと驚きました。貿易摩擦が問題になる昨今、アメリカの地図で日本を眺めると何か違った発想が浮かぶかもしれません。というわけで私の部屋に大きな地球儀をおきました。海外にでかける前など、この地球儀で行く先をチェックし、仕事との関連を頭に叩き込むようにしています。
 とにかく固定的にものを見ると、考え方も固定的になるものです。自分の行動に疑問をいだくことも少なくなってしまいます。周囲を色々な角度から眺め、いつも周囲に関心を持ち、好奇心をもって接することが大切だと考えています。そうすれば状況の急な変化にも対応することができると考えます。

3. 一時に賭ける

1985年(昭和60年)9月

織田信長が宿敵今川義元を破り歴史を大きくかえた桶狭間の戦、永禄3年(1563年)5月19日のことです。前夜清洲城を出発した信長は途中で鷲津、丸根の砦がおとされたことを知ります。善勝寺まで到着した時、梁田政綱から「今川治部大輔、ただいま田楽ケ窪に輿をとめ昼食中の由にござりまする」という知らせを受けます。そして義元の首一つに標的を定め、その一時(いっとき)に賭けた信長の怒涛のような奇襲は見事に成功しました。この戦で功名第一とされたのは義元の首級をあげた毛利新助ではなく梁田政綱でした。情報の重みが評価されての事でありましょう。
 この信長が本能寺で明智光秀に弑逆されたのが、天正10年(1582年)6月2日。その時秀吉は中国地方を平定するため備中(岡山県)の高松城の清水宗春を水攻め中、信長の死を知ったのは6月3日夜のことでした。そして4日午前には高松城の投降の条件を緩和して急遽講和を成立させます。一つには信長の弔い合戦の場に急行したいため、もう一つは天下人への千載一遇のチャンスをのがしたくないと考えたからでしょう。高松城救援のため毛利、吉川、小早川の大軍が秀吉の背後にせまっていることもありました。この毛利軍が信長の死を知ったのは6月4日の晩で、彼らは切歯扼腕したことでしょう。
 秀吉は高松城の始末を終え、毛利軍が引き上げるのを見とどけ6日の午後高松城をあとにして約80キロメートルをかけぬけ翌7日に姫路に到着。2日間兵を休ませて9日には姫路を出発し、13日の山崎の合戦で明智光秀に圧勝、天下統一の道を進むことになります。
 「時機にかなった」とか「時機を逸した」とか言います。的確な情報とそれに基づいた俊敏な行動、それが勝敗を分けた例は歴史に数多く残されています。
 私たちの仕事でも、問題処理にあたっての対応は時機にかなってこそ、その効果は大きいのです。

4. 医者と患者

1986年(昭和61年)2月

 二年ほど前、田舎のほうで長らく開業医をしていた遠縁の人が入院加療中と聞いてたまたまその地を訪れる用事があり見舞いに行きました。なつかしそうに手を握りながら「私はご承知のように長いこと医療に従事してきました。その時は何気なく患者に接してきたのですが、こうして自分が病気になり看病される身になってみると、自分は今まで患者の身になって治療にあたってきたのかと反省させられます。もう一度よくなって今度こそ本当に医者として患者に接したいと思います」と語りました。その人はそれから10日後に他界しました。ガンだったのです。(本人は医師ですから自分の病状は知っていて、尚こう言ってくれたかと推察はするのですが)彼にもう一度医者として仕事をさせてあげたかったと思いました。はりきって私に語ってくれたのですから、本人もどんなにか幸せになったでしょうに。
 先日海外に出かけた時飛行機の中で時間つぶしに映画をみました。タイトルは「ドクター」でした。これが何と前述した遠縁の医師が見舞いのとき語ってくれた医師としての悟りと全く同じストーリーでした。事務的に速やかに治療するのをモットーにしていた大病院の医師が彼自身咽頭ガンとの宣告を受けて人間性に目覚め自分を発見する姿を描いた物語だったのです。
人間性に目覚めるというのは「自らのあるべき姿をどう自覚するか」でありましょう。過ぎ去ってゆく1日1日が足早であるだけに、私たちは自分自身の人間性にいつも強い関心を払い、そして1日1日をいかに充実して生きるかを考えるべきであろうと考えます。

5. タンポポの花

1986年(昭和61年)5月

 小学校の同窓会で郷里の熊本に行きました。参加者は男女あわせて40人あまり、小学校に集まり校長の近況説明のあと校内を見学しました。昔とは様変わりでしたが校庭の真中にあった大榎は依然健在でした。阿蘇の温泉に一泊して久しぶりの再会を喜びあいました。なにしろ半世紀たっているのですから、お互いに初めて会うような感じの人もいるわけです。「男女七歳にして席を同じゆうせず」の教育をうけた私たちの学校時代、女性はほとんど憶えていません。
 大半は郷里に居をかまえ第二の人生を楽しんでいます。県庁勤めを終えて県民相談室で色々な悩みごとの相談相手をしている人、郵便の集配を35年以上もやっていまは悠々自適の人、四国の辺鄙なところで医療に従事している人、土木の設計技術を生かして自分で会社を経営している人、大学の薬理学の教授になっている人、農協の組合長をやっている人……とにかくバラエティーにとんでいます。女性の大方は主婦でした。
 皆大変元気そうです。私が社会に出て懸命に仕事をしている間、友人たちもまた時代を生き抜いてきたのです。そういう満足感があって、だからこそ、この集まりが楽しいのだと思いました。               
  「たんぽぽの花は 日陰だからイヤだ、湿地だからイヤだ、日があたり過ぎるからイヤだ、とは言わないで精一杯花を咲かせる」
こんな言葉を読んだことがあります。白い冠毛をつけた実が風に吹かれて落ちたところがそのたんぽぽの一生をおくる場所なのです。そこでたんぽぽは一生懸命に花を咲かせます。こんなことを考えたら、なぜか一人一人の顔が輝いて見えました。

6. かんにんの四字

1986年(昭和61年)7月

「堪忍の二字が大切だよ」「かんにん、その四字が大切なんですね」
「いや、堪忍はたえしのぶという意味で二字だ」「ちょっとまってください、たえしのぶの五字が大切なんですね」
「いや、たえしのぶもかんにんも、要するに二字だ」「四字と五字ですが……」
「こらっ」「ハイッ、たえしのぶの五字が大切。よくわかりました」   
よくわかったのでしょうか?

「何故、決めたとおりにしないんだ?」「……」
「このあいだ、こうしようって皆で打ち合わせたばかりじゃぁないか」「じつは……」
「言い訳はやめろよ」「ハイ、スミマセン。これから注意します」
すみませんではすまないことが多いのです。

 家庭でも行きちがいは起こります。
「でかけるんですか?今日はAさんが挨拶にみえるから居て下さいって、そう申しましたでしょ」「そうだったかな?約束があるんだ」   
くもゆきがあやしくなります。

 時々大勢の人の前で話をします。用意もし、参会者のために懸命に話します。うなずいて聞いている人を見るとうれしくなります。しかし中にはうわのそらの人もいます。「人の話を聞かない人は自分の話も聞いてもらえない人」です。あとで困るのですがね。
 人の噂などは伝えなくてもいつの間にか伝わっています。たいていののことは伝えれば伝わります。しかし本当に伝えたいと思うことはなかなか伝わらないものだと思うことが多い昨今です。 

7. エリマキとかげ

1986年(昭和61年)9月

 もう二年くらいにもなりましょうか。エリマキとかげが大きな話題になりました。あれは車のPRに登場しました。南の島から運ばれてきてみせものになり、オモチャも作られました。赤茶けた凸凹の道を多分恐ろしさで一杯だったでしょう。エリマキを大きく拡げて飛ぶように駆けていく、TV画面のその後ろ姿には何とないペーソスが感じられました。
「私はこれで会社をやめました」と小指をたてて眺めるしぐさをするコマーシャル、禁煙用のパイプの宣伝です。これは大人向き。コマーシャルで評判になる条件というのは何でしょうか?極めて多種多様で特定することの困難な視聴者を相手に、その心をつかむのは大変むずかしいと思います。
PRすべき商品とどんなつながりがあるかよく理解できないコマーシャルがあります。…「あれがわからないのでは、オレも旧人類になったか?」「まぁ、いいや、わかる人にはわかっているのだろうから」とちょっと寂しく苦笑…。
どうやら今の世の中、ひたすら真面目であるだけではついていけないのかもしれません。杉田玄白は「解体新書」の中で「鼻とは顔の中央にうず高くなれるもの」と定義しました。これは真面目の代表です。「ラッシュアワーとは意外な人が意外な楽しみを味わっている時間、現代の混浴ともいう」と定義した小文を見たことがありますが、これは遊びの感覚。私たちに遊びは必要だと思いますし、遊び心のあるコマーシャルが評判を得るのではないかと愚考する次第です。

8. おせち料理

1987年(昭和62年)1月

 正月にちなんで「おせち」について調べてみました。
 「おせち」は御節と書き、もともとは節句を意味していました。節句というのは季節の変り目に行われたお祝いでした。陰暦正月の7日は人日(じんじつ)といって七草粥を食べます。3月3日は上巳(じようし)といって雛祭りです。5月5日は端午(たんご)、鯉幟をたてて子供の健やかな生長を願います。7月7日七夕(しちせき)、たなばた祭りです。9月9日は重陽(ちょうよう)、菊花の宴が行われます。この五節句は私たちの祖先が代々伝えてくれた日本的風物だと思います。五節句に用いられる料理は節供(せちぐ)とよばれ、これが「おせち」になりました。そして今では五節句のなかで、正月の膳のみに「おせち」という名が残っています。
 辞書には「ゆでかちぐり・昆布巻・てりごまめ・ごぼう・蓮根・芋・人参・くわいなどを甘く煮たもの」と書いてあります。昔は大晦日はどこの家庭でもこの料理作りに忙しいことでした。ずいぶん手伝いもしました。できあがった料理を重箱に詰めて一丁上がりというわけです。重詰料理のおかげで女性は台所をしばらく休むことができます。しかし最近はおせちもデパートあたりでたくさん売っています。有名な料理店のおせちもたやすく買うことができます。昔に比べれば女性の労働は大いに軽減され暮らしにゆとりがもたらされました。
 暮らしにゆとりができたことは結構なことです。しかし詩情あふれる節句の日本的行事も次第にかげが薄くなり、世の中のこと全てが安直になって行きます。古いといわれるかも知れませんが、こんな世相を見ながら過ぎ去ってゆく時代への郷愁を感じる昨今です。

9. 三年先の稽古

1987年(昭和62年)2月

 大相撲初場所は途中で2転3転しましたが、やはり横綱・千代の富士の優勝で幕を閉じました。20回目の優勝、大変なことです。大型力士の多いなかでの、この記録の達成は“賞賛にあたいする”以上のものです。
不世出の名力士双葉山が70連勝を阻まれた時の実況をラヂオで聞いて大変興奮したことを今でも記憶していますが、その後一時代を築いた羽黒山、栃錦、若乃花、大鵬、北の湖、……千代の富士をその一人に加えることに異論を唱える人はいないでしょう。皆相撲の世界では超一流、どの一人をとっても衆に抜きんでています。
 「心・技・体」が大切だと言われます。この三つを完璧に備えた人なんているわけがありません。体に恵まれた人はその体を生かした取り口をあみだし、体の劣った人はその分を俊敏な動きと切れ味するどい技で補う……それぞれに皆正攻法の型を身につけています。それに名力士とうたわれた人に共通なのは「心」がすぐれているところでしょう。ここ一番になった時の強さは目をみはるばかりです。そういった強さは目標に到達するための所謂「三年先の稽古」の積み重ねが土台になっていることはいうまでもありません。
 千代の富士から双葉山まで私の記憶の糸はつながってゆきました。群鶏さわぐ中に木鶏(もっけい)の境地を求めたといわれる双葉山、あの伝説的な強さは一体どこから生まれたのでしょうか。
どの道、一流になるのは並大抵ではないのですね。

10. 入試

1987年(昭和62年)3月

 一流の政治家、一流の学者、一流の芸能人、一流の評論家……。“一流”がやたらとまかり通る時代です。一流の絵を描いた人は一流の画家に違いないでしょうが、その絵を買って所持している人が必ずしも一流であるとは限りません。「一流の画家の描いた絵を持っている」と一流になったように感じるのでしょうか。
 一流の会社に入るためには一流の大学に、そのためには合格率の高い有名校に、さらにこの連鎖が子供たちの塾がよいとなるのでしょう。かって私も倅にそういった勉強を強いたことがあり、大きなことは言えないのですが、最近は子供たちには自由に思いのまま遊べる時間を与えてやりたいと思うようになりました。
 新聞に掲載される入試の問題を見るともなく見ます。複数の解答の中から正解を選びだす問題が多いようです。私たちの時代は文章で自分の考え方を述べる形式の解答を求められることが大方でしたから、どうも○×式問題には馴染めません。我々が仕事で遭遇するのは解答が必ずあり、そのアプローチの方法が限定されていて、その中からどれか1つを選ぶというような問題ではありません。応用問題ばかりです。そういうわけで入試の出題にいつも「これでいいのか?」とひそかに思ってしまいます。
 毎年2〜3月は受験生をかかえる家庭は大変です。しかしこのメッセージがとどく頃はもう受験シーズンは終わっています。入試がうまくいった家庭はこの世の春でしょう。うまくいかなかった家庭も、今年ばかりじゃぁないのですから、春はおおいに楽しみましょう。

11. 

1987年(昭和62年)5月

 目は心の窓といいます。“目の澄んだ”人と対話していると、こちらの気持ちも自然になります。我々人間は思っていること、感じていることをダイレクトに表にあらわそうとしません。しかし目には現れてしまいます。報告にやってきた人の目を見ると「あぁ、これは相当ツメてやってきたな」とか「こりゃぁ、まだ自信のあるところまでいっていないようだ」とか感じてしまいます。
 “目は口ほどに物を言い”と言いますが“目”を使った表現の多いのには驚かされます。わかりきったことですが、会社は有能な人材を集め育てます。その人たちの力が会社活性化の源泉になるのです。むろん新入社員にも“目をくばり”ます。有能な人材になりそうな人にはとくに“目をかけ”ます。“目にとまらない”ような人は元来あまりパッとしない人でしょうし、又上司、先輩の目にとまるくらいは“目立た”なければ、もう“目じゃぁない”のです。
 皆さんの前ですが人間はなかなか思うように動いてはくれません。“目をかけた”人が実は“目を離せない”つまりその周囲にはいつも“目を光らせて”おかねばならぬことがあります。もう30年以上にもなります、私の中学時代の同窓生が両親だけの住まいにおしかけ、親友などといつわってなにがしかの金を詐取して行きました。事実を知らされてみれば、あいつならやりかねないという人柄でした。“目が利かなかった”ばかりに“目もあてられない”結果になり悔やむことがあるのです。いろいろな人に会って相手の力量を見定める…人を見る“目が高い”と言われるようになりたいものです。
 上司、先輩から“目を注がれ”ここぞというとき“目に物見せて”“目から鼻にぬける”ような働きができれば、これはもうご立派です。

12. 生死を分けた十五段

1987年(昭和62年)9月

 軽井沢に行ってきました。イメージが変わり昨今はすっかり若者に占領された感じです。旧軽井沢銀座あたりは東京の原宿あたりかと思われるほどです。昔の宿場町の面影など探してもなかなか見あたりません。
 この軽井沢の街から車で40〜50分、左に奇勝“鬼押出”を見ながら走ったところに小さな観音堂があります。間口が2間ほど、祠(ほこら)といった方がぴったりかもしれません。鎌原(かんばら)観音と呼ばれています。みやげ物を売る店が数軒ならび、その横にお堂に上る石段があります。幅1メートル余り、数えて15段。
 天明3年(204年前)7月8日、浅間山の大爆発により噴出したマグマは熱泥流(ねつでいりゅう)となり、火口から10キロ以上離れた鎌原地区をアッという間に襲ったのです。当時、観音堂は50段の石段の上にあり、小高いところに位置していました。異変を聞きつけた村人たちは先を争って観音堂に上ろうとしたに違いありません。熱泥流は人々に逃げのびる時間を与えず、35段の石段まで埋めつくしました。鎌原地区の人口約600人のうち470人が生埋めになりました。難を逃れた人の多くがこの観音堂にいたということです。先年発掘調査が行われましたが、この石段の僅か数段下のところに互いにかばい合った女性2人の遺体が見つかったと聞きました。石段の傍らに「天めいの生死をわけた15段」の碑がたっています。その後も何度か鎌原観音を訪ねましたが、その都度さぞ辛かったことであろうと昔を偲びます。
考えてみれば私たちだって、日ごろこの15段あたりで生きているのかも知れません。ただ知らないだけの事。だからこそ1日、1日を大事に生きたいと思いを新たにするのです。
 お堂のそばの小屋には囲炉裏(いろり)があって、いつもお湯が沸いています。お年寄りが輪番でつめていて、参詣の人にお茶のサービスをしてくれます。200年前の悲惨は忘れるべくもないことでしょうが、老人たちはいつも屈託のない笑顔でお参りの人々を迎えてくれます。

13. 一期一会

1987年(昭和62年)11月

 前経団連会長の稲山さんが去る10月9日亡くなられました。
 洒脱なお話、相手をそらさない温顔にも二度と接することができなくなりました。愛惜の念を禁じえません。
 ある製鉄所の副所長をしていた頃です。会社の幹部や各作業所の所長を迎えての会議があり問題点を説明し工場を視察してもらいます。作業所にとっては
2年に1度のチャンス、準備は大変です。現場の整理整頓はむろんのこと、試験設備などはテスト・テストの繰り返しです。
 その日、開発の目玉ともいうべき設備が途中で止まってしまいました。社長であった稲山さんはしばらく様子を見ておられましたが、やがて誰に言うでもない調子で「我々がくると機械がよく人見知りするんですよ」と言われてその場を去られました。私はもう“穴があったら入りたい”以上の思いでした。
 「あの開発中の設備がトップの目に止まることは、もう二度とないんじゃぁないかな。チャンスだったんだがな……チャンスは一度だけなんだよ」居合わせたある先輩のつぶやきが聞こえました。……テストは繰り返した、これくらいやっておけば大丈夫と思った、……しかし、まだ見落としがあったのではないか?……悔恨はながく心に残りました。
 稲山さんは、その場を和らげるためにあのように発言されのでしょう。しかし私には「こういうことも起こるのだから、もっとしっかりやっておきなさい」と叱責されたように思えたのです。
 “逢うてわかれて わかれて逢うて 末は野の風秋の風
                   一期一会のわかれかな“
稲山さんのご冥福を心から祈っています。

14. おかめ傍目はちもく八目

1988年(昭和63年)2月

 「傍目八目」という言葉があります。辞書には「他人の打つ碁を見ていると対局者より八目も先までわかるということ、転じて局外者の方が物事の是非得失が明らかにわかること」とあります。高段者は別として素人の碁ではそう先まではよめません。形成が自分に有利であるように判断してゆるんでしまったり、反対にそんなに悪くもないのに無理に相手の石をとりにいってかえって棋勢(きせい)を損してしまったり、ということがよく起こります。勝負にこだわって大局の判断を誤るのでしょうか。
 小学生の頃、本を読んでいて目を本から離すようにと注意されました。そういう明視距離のしつけをされたことが幸いしてか、私は目が健康です。とは言ってもここ数年、近くのもの、例えば新聞や辞書の字が見えにくくなりました。少し距離を離すと見えるのですが、離しすぎると字が小さくなって識別できなくなり、老眼鏡の助けをかりることになります。
 新聞を両手で広げると、丁度見出しが一瞥できます。世の中にどういうことが起こっているかを知るには、新聞の見出しを見るのが一番です。しかし事実について知ろうと思ったら新聞を引き寄せてよく読んでみなければなりません。もっとも記事を読んでいるとその部分だけしか見えません。
 離れすぎてはいけません。さりと目を近づければ全体が見えなくなります。景気はどうなるのか、為替レートはどう変化するのか、「傍目」の「八目」が欲しい心境です。

15. 故郷で

1988年(昭和63年)4月

 私の故郷は熊本、かって細川氏の領地でした。歴代藩主をまつる菩提寺が街はずれのなだらかな丘陵のなかにあります。先日久しぶりに訪れました。10〜15メートルもあろうかと思われる孟宗竹林のなかの遊歩道は、針の落ちる音も聞こえそうなくらい静かです。日ごろ雑踏と喧騒のなかで生活している私にとってこの清澄な空気は、手にとることができれば頬ずりしたいとさえ思ったほどです。
 まっすぐに伸びた竹林の梢のわずかな隙間からのこもれ陽がところどころに陽だまりをつくっています。そこにガラシャ夫人の墓がありました。
 細川玉子(忠興公の令室)〜明智光秀の娘に生まれたばかりに、数寄な一生をおくったことはあまりにも有名です。キリスト教の洗礼をうけてガラシャの名をもらいました。敏知聡明で信心あつく善行を積んだそうです。関が原合戦を前に人質として大阪城に移されることを拒み、家に火を放って自害しました。
   “散りぬべき時知りてこそ世の中の、
             花も花なれ人も人なれ“
辞世の歌です。しばし瞑目して往時に心を馳せました。人を愛し、自らに忠実に生きた、その純粋な生き様は感動的でさえあります。
 どうもこういう感動が、私たちの生活には乏しくなってしまっているように思います。その純粋さが次第に失われつつあるようです。私たちは日々激しい競争の場にいて、ただもう懸命に走り回っている……自分を振り返る余裕などないようです。
 故郷の自然の中で、拘束されない心の自由を味わったように思いました。故郷は遠くにありて思うもの、と言いますが故郷には我々を暖かく包みこんでくれる何かがあるようです。

16. 怪我と弁当は自分もち

1988年(昭和63年)6月

 先日、ある新聞で「怪我と弁当は自分もち」と題する小文を見ました。以前、北九州の工場に永いこと勤務しましたが、その頃この言葉をよく耳にしました。北九州の若松はかって筑豊の石炭の積出港でした。働く沖仲士たちがそう言っていたのです。“自分を守るのは結局は自分なんだ”というわけです。当たり前のことです。しかし怪我が起こって色々調べてみると、本人の軽率な行動が原因だとしか考えようのない事実にぶっつかるのです。安全を説くときこの言葉をよく使いました。口がすっぱくなるほど“自分の身は自分で守るように”といいつづけたものです。
 もとよりそれと併行して設備の面ではフールプルーフ化〜つまり人間が軽率な行動をしても出来るだけ間違いが起こらないように改善してゆきます。しかしこういう事もあります。この間東京駅で経験したのですが……ある階段の降り口に「工事中・頭上注意」とあります。危険が予想されるから注意を喚起しているのでしょうが、しかしあたりを見回す人は殆どいません。まぁ滅多なことはないのでしょうけどネ。
 このような情景には時々お目にかかります。エスカレーターの手すりに手をそえるようにと注意が繰り返されていますが、実行している人は少数です。黄色の信号で小走りに道路を横切る人にもお目にかかります。立入禁止の立札を無視して柵の中で遊んでいる人がいます。
 どうも自分は怪我はしないのだと過信しているようです。目まぐるしく変化する現代、日々の暮らしのなかで事故に遭遇するチャンスはいくらもあるのですから、常住坐臥、「怪我と弁当は自分もち」の言葉を心に刻んで行動しするようにしたいものです。  
追記 沖仲士の時代、上記の言葉には「怪我して苦労するのは自分、最後まで誰が面倒をみてくれるものか」という反語的な意味もかくされていました。現在は怪我をして苦労するアナタがいないようにするために、この言葉の正しい意味を理解して欲しいと思います。

17. ゆとり

1988年(昭和63年)9月

 日本人は長生きになりました。平均寿命は男性が75.6歳、女性が81.4歳と世界のトップクラス。(現在は男性78歳、女性85歳で世界一)しかし私より若くて死ぬ人も少なくありませんし同年代の友人が亡くなって急に自分の体が気になったりします。成人病検診を受ける年頃になると、肩がこるとか胃が重いとか寝つきが悪いとか色々起こってきます。「少しくらいの不調は病気じゃぁない。放っておけば治る」と我慢してしまうことが、いろんな病気を背負いこむことになるのでしょう。
 本や雑誌を読みますと現代人の病気の大半はストレスにその原因があるようです。スポーツで汗を流す、仕事を終えて一杯やる、麻雀でしばし憂さを忘れる……などなどストレス解消のために皆さんも夫々何か工夫していると思います。しかし楽しむために出かけたゴルフ場で亡くなる人もいます。1番ホールで起こることが多いと聞きます。スタートでの緊張や気負いや力み、ここにもストレスが働いているのでしょう。徳川家康の知遇を得て帰依をうけ、「黒衣の宰相」ともよばれた天海大僧正は、
長寿は 粗食 正直 日湯(ひゆ) 陀羅尼(だらに)
            おりおりご下風(かふう)あそばさるべし
の歌を残しておられます。
 毎日を悔いなく過ごす、そうすれば屈託がないから気持ちがゆったりとしておくことができる、“あるがままに”この心の置き所が大切だということでしょう。
つまり心に「ゆとり」をもつことではないでしょうか。   

日湯:毎日入浴すること
陀羅尼:梵語で諸悪をさえぎってもろもろの功徳をうけること
下風:おならのこと

18. 韓国を訪問して

1988年(昭和63年)11月

 世界の鉄鋼首脳が集まって現在の鉄鋼業の抱える問題について意見を交換する世界鉄鋼協会の会議が今年は韓国のソウルで開催されました。直前に行われたオリンピックの余韻さめやらずの感じで、目抜きの通りには五輪のマークをかたどった花飾りが残されており、大変な活気を感じました。
 総会の運営はスムースで韓国の関係者の努力は大変なものであったと推察しました。工場視察でポスコ(Pohang Iron & Steel co.)の光陽(かんやん)製鉄所を訪問しました。島と陸地の間の海面を埋立て、そのグリーンフイールドに建設された一貫製鉄所で、着工後僅か3年目の今年7月第2高炉が稼動を始め世界最大・最新鋭の工場になりました。素晴らしい生産性を誇っています。
 ゲストハウスの前に広がる工場の威容は壮大な叙事詩を見る思いでした。短期間にこれだけの設備をつくりあげた韓国の人たちのバイタリティーというのかエネルギーというのか、さきのオリンピックを成功させたことを思いあわせ、畏敬の念を感じました。
 「この間のソウルのオリンピック大会は1つの市でやったというのとは違うのです。我々は国を挙げてやったのです。今度のこの総会もそうです。世界の中で我々はまだ小さな力かも知れません。しかしこういうことを通してわが国の姿をみてもらい、自らに刺激を与え、国力のレベルを引き上げていきたいのです」ある会社幹部の方がそう語っていました。韓国はこれからもまだまだ躍進を続けることでしょう。一方我々にはこのような意気が最近薄れてきているのではないかと案じられて仕方ありません。

19. パン屋の店先で

1988年(昭和63年)12月

 土曜日でした。銀座に出たついでにパンを買おうと思い高名なK屋にたちよりました。いくつかを選び、袋にいれてもらおうと店員にさしだしました。「ちょっとお待ちください」と言われただけでなかなか応じてくれません。お客もそれほど多くいなかったので何故やってくれないのかわかりません。そこでガラス戸だなの前に行って別の人に頼みました。ここでも「ちょっとお待ちください」です。売り場には店員さんが6〜7名はいたと記憶しています。私は少しはなれたところにいる店員さんに向かってやや大きな声で「これを頼みますよ」と言ったのですが、ちらりと私の方を向いただけでした。その人たちの顔には表情がありませんでした.大変イライラしました。急ぎの用事もありましたので買おうと思ったパンをガラス戸だなの上に放ったまま店を飛びだしました。腹の虫がおさまるまで相当の時間を要しました。
 「わが社の人々もたまにはこんなことをやっているのではなかろうか?」冷静になって考えてみれば大いに気になることです。相手にそんな気持ちを感じさせるなんて、とんでもないことです。何しろ「お客様は神様」ですから……。

この間までのライトブルーの秋空に冬の雲が去来しはじめ、黄や赤に色づいた木々の葉も吹く風に抗しきれなくなって散っていきます。自然はやがて冬、そして新年を迎えます。来年が是非とも躍進の年であって欲しいと念じています。

20. 車椅子のつぶやき

1989年(昭和64年)3月

 私は犬が大好きです。初対面の犬と挨拶するには?……知人の家を訪ねたらまず犬がでてきて吠えられたという経験は誰でも経験されたことがあるでしょう。こんな時はその犬と目の高さを同じにするのがいいようです。飼い犬であれば少し警戒はしながらも、好奇心のせいでしょうか近づいてきます。顎の下、喉のあたりをさすってやることができたらしめたものです。こちらが立ったままで頭を撫でようとしますと、目線の低い犬のほうでは高い位置から何かがせまってくる感じを持つのでしょう、威嚇の牙をむくということになります。
 先日「車椅子のつぶやき」という本を読みました。下半身の不自由なあるご婦人の書かれた随筆です。
「私の場合車椅子に腰かけて目線は路面から計って108cm、デパートの売り場で陳列ケースの中は見えるがケースの上に並んだ品物は見えにくい。といってケースの位置を変えてもらうわけにはいかない。……街で友人に会う。相手は立って自然な形だが、私は見おろされる位置。相手の顔を見て話をしようとすれば、かなり仰むかねばならない。これは見かけよりもエネルギーがいる。たまに腰をおろして話しかけてくれる人がいる。全くほっとする。身体不自由者の悩みなど説明してもなかなか理解はしてもらえない。」
 このご婦人は108cmのレベルで周囲を見ています。ノッポの人はもっと高いところからあたりを眺めています。先日我が家の犬の目の高さでビデオを撮影してみましたが、いつもの散歩道も随分違った眺めになりました。目線の高さによって私たちの生活空間はかなり違ったものになるようです。
 よいコミユニケーションのためには相手と目線を同じにすること、一方目線の高さを変えて世の中を見れば、今までにない斬新な発見があるかもしれません。

21. 天行は健なり

1989年(平成元年)4月

 皇居のお濠の水もぬるみ、柳の緑が濃くなってきました。人類の祖先が出現したのは今から約20万年前と聞いています。その祖先たちが農耕を始めたのが約1万年前ということです。少なくとも、以来自然はあやまりなく変化して倦むことがありません。三好達治氏の詩につぎのようなものがありました。
 「朝咲く花の朝がおは  昼にはしぼんでしまいます
  昼咲く花の昼がおは  夕方しぼんでしまいます
  夕方に咲く夕がおは  朝にはしぼんでしまいます。
  そうしてさっさと帰ります。 どこかへ帰ってしまいます」
 中国の古書、易経に
「天行は健なり、君子以って自彊(じきょう)して息(や)まず」
(天の運行は健やかで、一刻も休むことがない。君子もそのようにつとめて、
とどまることのない努力をしなければならない、とでも訳するのでしょうか)
同じ中国の唐時代の高僧“趙州”(じょうしゅう)と弟子の僧の問答です。
「ここに来てまだ日が浅く何も知りません。どうかご教示をお願い致します」
「あんた、朝のお粥は食べたかい?」
「はい、いただきました」
「そうか、それならば、そのお鉢をきれいに洗っておきなさい」
「……」
これだけの話しです。理解する、しない、の問題ではないようです。無限の宇宙の悠久に比べれば、無限小の瞬時の生をいとなんでいる私たちに、“現在のこの一刻こそ限りなく大切に生きなければならない”と趙州和尚は教えてくれているのではないかと思います。

22. 観桜会

1989年(平成元年)5月

 「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」まさに風かおる5月です。英語ではMay。ヨーロッパの5月は春、色々な花がいっせいに咲き乱れます。
May PoleとかMayingという花にまつわる言葉もそこから出たのでしょう。
 去る4月20日、新宿御苑で竹下首相主催の「櫻を見る会」に招かれました。この御苑には数十種の櫻が植えられていてその数およそ1900本、一重は既に終わり八重桜が満開でした。参加者は三々五々、いかにも重たげな枝一杯の櫻の下を散策し、その美しさを満喫していました。櫻にまじって花水木を見ました。白い十字の花弁がとても清楚でした。下から見上げれば葉は陽を浴びて葉脈が一つ一つすけて見える美しい緑、花壇のチューリップはこれはまた鮮やかな赤と黄色でした。ひとときその美に心を奪われました。
 30分もたったころ、あたりが突然騒々しくなったと思ったら、警視庁の車を先頭に首相が到着しました。アッという間に大勢のSPに取り囲まれ小柄な総理の顔も姿も人の中に隠れてしまいました。やっと人垣の間からみた首相の顔は心なしかこわばっているように見えました。政治のことで桜を愛でる心境ではなかったのでしょう。
 夕刊には伊藤みどり選手と握手している写真がでていましたが、本当はそんな雰囲気ではなかったのです。この日は招待された人々の集いですから、大勢のSPを配するなんてナンセンス。こういう時こそもみくちゃになってもいいから人々とのコミユニケーションをはかるべきではないかと考えて次第でした。
 ご存知のように竹下さんはほどなく首相の座を去りました。首相を辞くにあたっての記者会見の中で「国民と政治家の間にあまりにもへだたりがあった……」と語っていました。

23. 名残の雪

1989年(平成元年)7月

 ときどきお昼を食べに行く天ぷら屋さんがあります。間口が一間ほど、ガラス戸を開けると右手のカウンター席に椅子が8つか9つ、左側のからかみの奥にお座敷天ぷらの部屋が2つ。女将さんは大変ネアカで太りじしの体をこまめに動かして、お客にサービスをしたり対話を楽しんでいる風情(ふぜい)です。
 2〜3年前から地あげ屋に追い立てられて弱っていると、よくこぼしていました。隣にあった建物がなくなりその店だけが、かなりの年月を経た壁をむきだしにしながらも、その存在を気丈に主張していました。
 今年になって何時のことでしたか“春一瞬 30年の店 閉ずる”の句を記した閉店の知らせをもらいました。“ヘェーッ、とうとうか”の思いで店じまいまでにはまだ間があったので、しばらくぶりに立ちよりました。女将さんは相変わらずで、30年も続けた店を閉じるといった感傷は微塵も感じられませんでした。
 しばらく多忙の後、ふと気がついてみますと、あの見なれた店が影も形もありません。近くまで行ってみました。壊されて綺麗に整地されていました。そんなに度々という程ではなかったのですが、行きつけの店が忽然と消えたのです。何か胸の中をすーっと風が吹き抜けていくような感じがしました。
 そして数日前、女将さんの句集が届きました。
  賑わいも 遠雷の中 夢の中
  捨てがたき 店に名残りの 春の雪
の句がありました。外目には屈託なく見えた女将さんの胸中を、今ひそかに見た思いです。
 人は夫々にいろんな思いを胸に抱いて生きているのでしょうが、その思いは傍(はた)からはわかりようもありません。しかし私はその心を……そしてその心の交流を大切にしたいとしみじみ思ったことでした。

24. 豆腐屋のラッパ

1989年(平成元年)9月

 久しぶりに休暇をとっての昼下がり、一睡のうちに昔のことがよみがえってきます。“とんぼ釣り、きょうはどこまで行ったやら”虫かごをさげてふるさとの野山を歩きまわったこと、祖母がとりたての鮎を買ってきて馳走してくれたこと、田舎の家がひろくて夜一人でトイレに行けなかったこと……。
 夕方、日が西に傾くころになると「ピーポー」とラッパの音を鳴らしながら豆腐屋のおじさんがやってきます。片手で器用に自転車をあやつりながら角笛風の銅製(からかね)のラッパを吹いてやってくるのです。このラッパが聞こえると母はだまって小銭と鍋を手渡します。「一丁買っておいで」というわけです。自転車の荷台に積んだ木箱の中に豆腐が並んでいます。近所のおばさんたちの輪ができて賑やかです。豆腐屋のおじさんは器用に薄刃の包丁でお客の注文に応じてゆきます。
 目覚めてみれば今はもう豆腐屋のラッパの音を聞くことはありません。豆腐はポリ容器にはいってスーパーの棚に並んでいるのです。いまや魚がパック入りで売られ、パックから取り出した漬物が朝の食卓に並ぶ時代です。野菜や果物にも季節感がなくなりました。無骨なおじさんの掌から手際よく切りわけられていく豆腐に感じられたあの暖かみはもはや経験すべくもないようです。
 昨今の1年は昔の10年に相当するほど変化が激しくなっています。そして次第に世の中に情緒が乏しくなっていくように思われます。暖かい人と人との交流、隣人とのつきあい……そういったものに接することが少なくなりました。昔を懐かしむのは私の感傷かもしれませんが、願わくば私たちの心に根づいている思いやりの心、自然を大切にする心……そういうものを時代がいかに変わろうとも大切にしてゆきたいと考えるのです。

25. 卒業は始まり

1990年(平成2年)3月

 三月は卒業式のシーズン、「蛍の光」がよみがえります。歌詞は中国普の時代、車胤という人が蛍を集めてその光で書を読み、孫康という人が雪明りで本を読んだという故事から作られたものです。刻苦勉励したんだ、ということです。しかし考えてみれば蛍の光や雪明りで本は読めそうにありませんし、また「笑府」という中国の古書には次のような馬鹿々々しい話がでています。
 「ある日、孫康が車胤を訪ねたら留守。門番に尋ねますと“蛍を取りに出かけられました”との事。しばらくして、車胤が返礼のため孫康の家を訪ねると、孫康がぼんやりと庭に立っています。“どうして本をお読みならないのですか?”“どうやら今日のこの空模様では雪は降りそうにもありません”“??”」
卒業の卒は「おわる」とか「おえる」という意味です。普通「おわる」終わると書きますが、終業は「仕事の終わり」また「学年・学期が終わること」と説明されています。それぞれの字の本来の意味に差があるのでしょう。米国では卒業式のことをCommencementというそうです。久しくなりますが私の卒業の時、南原総長から“米国の大学では卒業式のことCommencementというがこのCommenceはbegin、startを意味している。今日がスタートである。諸君は今日巣立つのだが日本は敗戦によって困窮している。君たちは青白きインテリーになることなく、これからが本当の勉学の場であることをよく認識して我が国の再建のために努力してもらいたい”という趣旨の式辞を頂戴しました。
  この式辞は今でも良く記憶しており、以後「事の終わりは次のスタートである」といつも自分に言い聞かせて新しい事に挑戦しています。

26. 忙中閑

1990年(平成2年)4月

 古い都都逸(どどいつ)に
   佃(つくだ)育ちの 白魚さえも 花にうかれて 隅田川
があります。いかにものどかな昔の情景と情緒が感じられます。私も先日花見にゆきました。隅田川の土手に見事な花です。その樹下を行きかう人々…花の下に毛氈(もうせん)をひろげてうかれ拍子の三味に合わせて歌う人…一方からカラオケが聞こえ…川には飾りの提灯が美しい花見の舟…皆しばしを花に託して日ごろの憂さを払っているのでしょう。私も連れと一杯やって花見客の一人になり、櫻の美しさに心洗われるひとときを過ごしました。
 私は長い間忙しい日々を過ごしてきました。“ひま”なことは景気がよくないことに通じますし、忙しいことは幸いなことと思って過ごしてきました。根っからの仕事人間になっていました。「余暇をどうしよう?」なんて考えたこともありません。しかし“忙”は心を亡くしている状態、そう思うと生活に「ゆとり」がむしょうに欲しくなりました。豊かになっているのですから、たまにはのんびりして……そうすると豊かさがさらに実感できるのではないでしょうか。
 禅の言葉に「風 疎竹(そちく)に来る 風 過ぎて 竹に声を留めず」があります。風がまばらな竹林にあたると竹の葉がさやさやと鳴る、しかし風が吹き抜けると、もう竹には音が残っていない。つまり、心の練れた人は何か事が起きたときに心が動くが、その事が終われば心もまたもとの平静にもどって、いつまでも執着してない、ということを表しています。私たちにはなかなか達しえない境地ですが、せめて忙中閑を楽しみたいものです。花見にでかけたかいがありました。                            
佃島;東京中央区の地名、隅田川の川口に生じた小島。昔は白魚の産地、佃煮で名高い

27. 真打ち

1990年(平成2年)5月

 付き合っている噺家のお弟子さんがこのたび真打ちに昇進しました。真打ちというのは技量にすぐれ、寄席で「トリ」をとれる資格のある人に与えられるものです。その披露興行を見にいきましたが、なかなか晴れがましい高座でした。真ん中で頭を下げてかしこまっている本人、並んだ大先輩の師匠連、みな正装の和服姿です。師匠連がそれぞれに新真打ちを紹介し「真打ちというのは相撲で言えば関取になったばかり、これからの精進が大切ですが、何よりお客様方のごひいきが一番のたよりです。よろしくお引立てのほどを…」と口上を述べます。
 入門を許されて師匠の家に住みこみ、師匠や先輩の人たちの身の回りの世話、走りづかいから始まります。もちろん芸の修行もあります。こうして前座(ぜんざ)、二つ目(ふたつめ)を経て十数年です。真打ちへ昇進を許されるのは本当に嬉しいことだそうです。
 この世界で芸をマスターするには「守・破・離」が大切だといわれています。「守」は徹底的に形、つまり基本を身につけること。「破」はその形から抜け出ること。そして「離」は形を越えて独自の境地を開くということ。考えてみればこの「守・破・離」は私たちの仕事の世界でも大事な原則、人間はこの三つをくり返しながら進歩していくと言えるのではないでしょうか。
 その結果は色々、名人といわれた五代目・古今亭志ん生はこう言っています。
「うめぇとか、うまくねぇとか、ひとのやっているのを聞いて、そういうことをいうについちゃぁ、べつにものさしがあるわけじゃぁありませんが、ひとのはなし聞いてみて“こいつぁおれよりまずいな”と思ったらまず自分と同じぐらいの芸ですよ。“おれと同じくれぇかなと思うときは向こうの方がちょいと上”“こいつぁおれよりうめぇやと感心したひにゃぁ、そりゃぁもう格段のひらきがあるんですよ”」。
「名人は上手の上を一のぼり」とか、未熟な自己を認識して「守・破・離」…そこにこそ進歩があるのだと思います。

28. 緑陰にて

1990年(平成2年)9月

 短い夏休みを軽井沢で過ごしました。夏の軽井沢はどこも人、人です。私は人の出歩くところは避けて、樹下の散策を楽しみました。樹々の下は涼しいのです。ところどころこぼれ陽がおちています。樹々の葉の透き通るばかりの萌黄色はとても綺麗です。下は黒土、しっとりとしてクッションの感じられるやわらかさ、深呼吸をしながらゆっくり歩きました。
 先日ある新聞に「盛夏、植物も今が一番生長する季節。暑い昼下がり、木の緑の下に入ると、生き返った気分になる。少々のイライラも落ち着く。植物は酸素や水を人間に与えるほかに、このような心理的効果をもたらす……」といった記事がありました。まったくそうです。
 現在、地球の温暖化が問題になっています。炭酸ガスの過剰な排出がその原因ですが、その炭酸ガスを吸収するのは樹々の緑です。
* ブラジルには「アマゾンの森林は、全世界の人間依存に貢献しているのだから他の国々は適当な対価をブラジルに支払うべきだ」と主張する人がいると
聞きました。
* 住民一人当たりの公園面積は、ワシントン45.7平方メートル、ロンドン30.4平方メートル、ストックホルム80.3平方メートルに対して、東京都は僅かに3.5平方メートルです。
我々は工場を増設するような場合、先ずそれに見合う緑地を造成することを義務づけられています。しかし今や「規制があるから緑化する」という消極的考え方から脱皮すべきではないでしょうか。

29. 藪入り

1991年(平成3年)2月

先日、寄席で“薮入り”を聞きました。薮入りというのは奉公人が正月とか盆の16日に休暇をもらって実家に帰って休息することです。江戸時代に始まった習慣だそうですが私の子供の頃までは、このしきたりは残っていました。
「奉公に出した倅が帰ってくる。両親は前の晩から眠れない。倅が帰ったら、どこへ連れていってやろう、何を食べさせてやろう、とたった一日というのにとめどない話をかわしている。
ようやく倅が帰ってくる。さっそく銭湯へ行かせ、置いてあった紙入れの中を見ると、五円札が三枚もはいっている。悪い心でも起こしたのだろうと思って、湯から帰ってくるなりとっちめる。母親がなだめて聞いてみると、ネズミ捕りのおふれが出て、一匹捕って交番へもっていったのが賞金に当たり、その一部だと語る。両親は安心して“これからも主人を大切にするのだよ。これはやはりチュウ(忠)のおかげだ”」
前の晩の両親の親ばかとも言える会話、急に大人びた倅と父親の対話、そして最後の下げ。そこにかもし出されるペーソスについジーンとします。
 世の中が豊かになるにつれて社会が無味乾燥になり、うるおいが乏しくなったように思います。お互いを思いあう心が言葉でない部分で交流するような、そういう人間関係があれば、今の世の中だってもっとしっとりしてくるのではないかと考えるのですが・・・。                   
ネズミ捕りのおふれは明治33年に出され、制度として大正12年まで続けられた。明治35年、東京でペストが発生し、この制度が大いに注目された。

30. ランの鉢

1991年(平成3年)4月

 随分前のことです。懇意にしている京都のお寺のお坊さんが3〜4人、堺の我が家に見えたことがあります。別に予定していなかったのですがリビングにある仏壇をみて、皆さんで先祖の供養にとお経をあげていただいて、恐縮したことをおぼえています。帰りに広くもない庭を歩かれましたが、別れ際にそのお一人が「鉢植えのランがかわいそう」と誰いうとなく言われました。庭の一隅にその時々に戴いて花を終わったランが放置してあったのです。ランは時々水をやるだけで、ただ生きているという状態でした。もっとも見てほしくないものを見られて私も家内も顔が赤くなる思いでした。
 それから、あれこれとランのことを調べ始めました。そして鉢の植え替え、肥料と水やり、冬は家の中に……色々努力しました。水をやり過ぎて枯らしたこともありました。テレビの園芸番組で勉強もしました。私はほとんど東京住まいなので、この世話は家内の仕事です。他に鉢もあり寒さに弱い種もあります。バルコニーの下を利用して簡単なフレームを作りました。それだけでもランは見違えるように元気になり、数こそ少なかったのですが遂に花がつきました。
 3年ばかり前に、とうとう温室ができました。夏の暑い日々は太陽の直射日光が当たらないようにと、紗の日よけも用意しました。朝夕の窓の開閉も忘れることはできません。今では種類も増え、シンビジューム・カトレア・こちょうランなど色々な花が咲くようになりました。
 手をかける、目をかける、そして何よりも愛情が大切なんだ……草花もそれで育つのだと思います。近いうちに1鉢か2鉢もってあのお坊さんを訪ねたいと考えています。

31. スピーチ

1991年(平成3年)7月

 私は小さいころ両親から人前でしゃべるときは、自分で自信がなかったり、あやふやなことは軽軽しく言ってはいけないと教育されました。“沈黙は金なり”を美徳と教えられたのです。というわけで、私はいまだに人前でおしゃべりをするのは苦手です。この点、外人は自分の見解を述べるのには積極的です。コミュニケショの教育のあり方が異なるためかと考えられます。
 それが最近たてつづけに大勢の人の前で講話をする羽目になりました。一つは鉄鋼協会で賞を戴いた時の記念講演、もう一つはステンレス国際会議のオープニング・スピーチです。参会者は先輩、学識経験者です。原稿は社内の人たちにも手伝ってもらって、色々検討して用意しました。簡潔に、結論を明確に、やさしい言葉で、長い文書は避けて、メリハリをつけて……と考えねばならぬことは多くありました。ことにステンレス国際会議は英語でのスピーチなのです。外国からの参加者に理解してもらえるような英語をしゃべれるかと、そのことに大変気をもみました。外人に吹き込んでもらったテープを先生に、2ケ月あまり毎日練習しました。練習すること以外に方法はないし、練習すれば自信もわいてきます。結果はまずまずとのご評価をいただいたようで、日本を代表してのスピーチだっただけに、ホッとしているところです。
 国際化する社会の中で、日本人はとかく曖昧で、何を考えているのかわからないなどと言われます。コミュニケーションの問題はゆるがせにはできません。自分の意思なり、考えを明確に表現できるように……日ごろから努力しておくことが必要だとつくづく考えた次第です。

32. なれ?

1991年(平成3年)10月

 東京都の新庁舎が新宿に完成し、今年3月に引越しが行われました。旧庁舎は本社から通り一つへだてたところにありました。
 ある日執務室から眺めますと、見なれた都庁の建物が無くなっていました。そういえば暫くビニールのシートに囲まれて、その中で建物を壊すハンマーの音が聞こえていました。目隠しになっていたシートが取り払われてみると元の庁舎は跡形もありません。ずいぶんの広さです。ここに総合文化施設として新しいビルが建つのだそうです。ショベルカーが10台ほど、盛んに基礎の掘削をしています。そしてトラックが忙しそうに動きまわっています。
 視界は大きく変化しました。JRの線路が近くに見え、新幹線が往来しています。その向こうに高速道路があり、これまでと全く違った風景です。とても視野が広がったようで暫く見とれてしまいました。
 しかしいずれ新しいビルができれば、この目新しい風景は見えなくなり、今度はその新しいビルと、ビルの谷間の道のみを見ることになります。「なれ」てしまうと今見ている風景は意外と早く忘れてしまいそうです。
 「なれ」というのはこわいものです。信号を見ても、それが目に入らないで事故を起こすことがあります。「心ここにあらざれば視れども見えず、聴けども聞こえず……」というのでしょう。見ようと意識して“視る”、聞こうと考えて“聴く”、そうしないと見えないし聞けないのです。

33. 問題意識と工夫

1992年(平成4年)1月

何ヶ月か前に「豪姫」撮影のことを書きましたが、監督の勅使河原さんには時々お会いして話しをします。生け花の草月会の家元でありその芸術についてのお話は大変参考になります。草月会の雑誌の中にも「もっと工夫があっていい。工夫ということは、作品で思いっきりよく自分を語るという意味である。自分の主張したいこと、テーマを私にぶっつけてくるのが研究会だ。……なのにそのチャンスを無駄にしている人がいるのは残念だ。」とありました。
 その「豪姫」の特別試写会に招待されました。この映画は利休なき後の将軍の茶頭(さとう)、古田織部の物語です。その中に織部と徳川家康が対談する場面があります。
家康「物造りは何かにつけて熱中する。茶の湯者も用心せんとな。なぁ、織部、
   そちは茶の指南役であろう。茶道具の名品はすでに十分にある。その名品の価値を損なわぬよう、上手にいかすのがそちの努めではないのか」
織部「いかにも。仰せのとおりにございます。さりながら名物は名物として、われらその価値を認めながらも、新しきものを作るよろこびを打ち消すことも出来かね申す。これは自然の摂理、神の意志とでも申しますか……。新しきものはその価値が推し量れませぬ故、傍から見ると、身勝手ととられる場合もございましょうが……」
私はこの対話の場面に大変感激を覚えました。前述の雑誌の中の家元の話しにもさらに「絶えず新しい問いかけを自分にしている人は工夫することを忘れない。でも大半の人は工夫なしに、いつも同じことを繰り返している。そのほうが楽だから……」とありました。大いに考えさせられる言葉です。
 常に問題意識を持ち、工夫する、問題へのよりよき対応を考える、私たちの進歩もそこから出てくると思います。心すべきことと思いこの文を書きました。

34. 肝心(かんじん)・要(かなめ)

1992年(平成4年)3月

 昨日のことです。ある雑誌に「要領の領は漢語では“襟”、要は“裾”を意味する。襟と裾を着物の最も大事な箇所と考えて、物事の大事な点を指して要領という」とあるのを見ました。要領という言葉はよく使うのですが、このような語源があったことを知り驚きました。久々に漢和大辞典をしらべました。「要」には“こし”“かなめ”“もとめる”などの意味があり、「領」には“くび”“えり”“おさめる”などの意味がある、そして「要領」は「こしとくび、転じて物事の中心となる重要なところ、物事をうまく処理する方法」と記述してありました。雑誌の記事と同じです。時々若い人に昔の格言や中国の言葉などを得意顔で説明している自分のことを思い、私自身まだまだ勉強が足りないのにと、恥ずかしくなりました。
 話しは変わりますが、先日喫茶店のレジで……400+400+350円の払いに1200円を出しました。レジの女の子「あぁ、丁度ですね」私「?」。彼女も気がついたのか卓上カルキュレーターでやっていましたが、しばらくしてだまって50円の釣りを出しました。私はこの計算ぐらい暗算でわかりそうなものだという顔をしたのでしょう。私の怪訝な顔を見て、おかしいなと感じたのだと思います。そういうレジの子だって街へ出れば十分一人前に扱われます。
 小学校の卒業者で掛け算の九九ができない人がいるとか、そして前述のように簡単な暗算もあやしい人がいることを実感しました。彼らが将来子供を教育するときどうなるのでしょう。
 要領の語源まで知らなくてもその意味を間違いなく理解していれば、日常では十分こと足りるのですが……社会生活のまさに“要領”ともいうべき基本は確実に身につけておくべきだと、つくづく思ったことでした。

35. マナー

1992年(平成4年)4月

 インドネシアのバリ島を訪れる機会を得ました。バリ島は日本、台湾、韓国などアジアからの観光客が多く、それにオーストラリアからの客も多いとのことでした。観光客にとってのバリの魅力は自然の美しさと島民の人なつこさでしょう。大半がイスラム教を信仰しているインドネシアで、このバリ島だけは島民の90%がヒンヅー教を信じています。この島には現世とあの世が共存していて、神々や妖精、魔女、それらを祭ることが日常生活の一部になっているようです。中心の街、デンバサール郊外のヒンヅー教のヘサキ寺院にでかけました。ガイド氏の案内でお供えをさしあげて、ヒンヅー式のお参りをしました。土地の人々が好奇心一杯の顔で我々を見ていたのが印象に残ります。
 ヌサドゥアというリゾート地のホテルに泊まりました。そこで夕食をとったときの話です。日本からの団体客がレストランのテーブルの大半を占拠していて、私たちは隅のほうに座らされた感じでした。バンドがインドネシアの音楽を演奏していましたが、暫くして彼らは退場し、件(くだん)の団体客の一人が立ち上がりました。「大変お待たせいたしました。では○○さんの“赤城の子守唄”の実演がございます。歌は××さんです。ではどうぞ」。歌い手の“泣くな、よしよしねんねしな、……”の歌が始まりました。浴衣のしりをはしょり、背中に枕を背負って子供をおぶっているつもり、鬘(かつら)をつけ、刀をさして、これがたち方の○○さんでしょう。驚きました。国内の温泉宿の余興ならともかく、ここはバリ島なのです。色々な国からのお客のいるなかで、これは余りにも恥さらしです。こういう手合いと同じグループに見られたのではたまりませんので、早々に別のレストランに移りました。
 国際感覚を身につけねばと言いながら、外国の有名な観光地でこういう風景にお目にかかるとは……日本の真の国際化はどうなるのでしょうか?
(私はこのように感じたのですがこれは私一人の思い過ごしでしょうか?)

36. なまはげの意見

1992年(平成4年)6月

 この間私たち旧制高校の同級会がありました。秋田在住の友人がいて男鹿半島の観光を段取りしてくれました。卒業以来はじめてという友人もいましたが、お互い直ぐあの時代の心にかえります。戦時色の強い時代でしたがデモクラシーは残されていました。フランス映画を賛美し、漱石や鴎外など内外の文芸作品について時を忘れて意見をたたかわせたものです。
 バスの中で早速、秋田の銘酒が配られ皆ご機嫌です。そのうち、バスは半島のほぼ中央の真山神社に到着。ここがあの有名な「なまはげ」発祥の地だそうです。
 大晦日、わら蓑をつけ手桶に斧を持った恐ろしい形相の鬼が「ウォー」「ワオー」と奇声を発しながら、「泣く子はいねが」「なまげ嫁はいねが」と家々をねり歩く伝統的な民族行事です。「なまはげ」の語源は「ナモミ(火形)ハギ」、つまり仕事もせずに囲炉裏(いろり)にあたってばかりいる怠け者は足のすねに火形がつくので、それをはぎとりこらしめる……という意味から起こっていると聞きました。
 翌日、お土産屋に“なまはげの意見”を染め抜いたのれんがありましたので買って帰りました。今我が家のキッチン入り口にかかっています。味があってなかなか面白い言葉です。
 「泣きごとは言うな。  ばくちはけっして打つな。
    借りては使うな。   何事も身分相応にしろ。
  女房は早くもて。   子のいうことは八九聞くな。
  人に腹をたてるな。  神仏はよく拝ませ。
  火を粗末にするな。  家業には精を出せ。
  義理を欠かすな。   働いて儲けて使え。
  年寄りはいたわれ。  家内は笑って暮らせ。
  朝きげんをよくしろ。 戸締りに気をつけろ。
  大酒は飲むな。    初心は忘れるな。」
イヤ、ごもっとも、ごもっとも。

37. ペットとともに

1992年(平成4年)8月

 飼っていた犬が亡くなって丁度1年、先日その命日に長い間お世話になった獣医の先生や親しくしていただいた方々をおよびして「しのぶ会」を催しまえした。親犬に子犬を産ませ、2代にわたっての21年間、話は尽きません。
○ 「起こしておいで」というと、息子の部屋の前に行って「ワン」。返事がないと暫くして又行って「ワン」。返事があると尻尾をふってもどってきます。
○ 餌を与える順序を間違えて、親犬に拗ねられたこともあります。
○ 重病の犬に後ろ髪をひかれる思いで出かけた出張から帰った時、ヨタヨタしながら玄関まで出てきて「ワン」。(おかげで、ここまでよくなりました)と言いたかったのでしょう。
こんなことを思い起こすと胸が熱くなってきます。
 先日ある新聞の記事に「人の心の健康にとって話し相手、つまり気のおけないパートナーが必要。ぺットを飼うのがよい。ペットは我々の心に安らぎを与えてくれる。ぺットと話をしているうちに自然にストレスから開放される。心筋梗塞の防止にもなる」とありました。
 犬は物心ついた時世話をしてくれている人間を親と思い、真実の愛にこたえてくれます。そしてお互いの心の交流と同時に意思の疎通も可能になるように感じます。人間の場合、お互いに自分を無にし虚心になって付き合うことは難しいことですが、しかしそういう関係が出来たら素晴らしいことです。ストレスがたまった時、悲しい時、むなしい時、心を開いて語り合える友人がいれば最高です。なかなかそうも行かないようで……私は、やはり犬を飼うことにしましょうか。

38. 身近な省資源

1992年(平成4年)9月

 その1.夏休み、孫につきあって映画を見に行きました。アニメ映画でした。なかなかの盛況です。はいってみると館内の温度が大変低いのです。冷やし過ぎです。2時間足らずの間にすっかり冷えてしまいました。
通りを歩いていて大きな店の前で、内部の冷房が外まで感じられることがあります。暑いときは入り口を冷やすのがお客を誘い込むコツだそうですが、エネルギーの無駄づかいではないかと思います。

その2.家の近くを散歩していると、道ばたに自転車がゴミ同然にうち捨てられているのを見ます。まだ十分使えると思われるものが放置されています。買うときには、それなりの金を支払ったでしょうに……。自転車は消耗品ではないと思うのですが、ちょっと故障でもあると修理するのがわずらわしいのでしょうか。アパートの粗大ゴミの収集日には、テーブルや椅子などの家具、それにやはり自転車などがゴミ置き場に出されています。まだ使用できると思われるのに……ものを大切にすることが忘れられてしまったようです。

その3.日曜日、デパートの食堂でお目にかかることです。子供づれの客が多く、何とも騒々しいことです。食べ残しの多いのに驚きます。食べ残すようであれば注文を控えるか、子供の食べ残しはいくらかでも大人が整理すべきだと思うのです。戦中、戦後、食うや食わずの時代を経験した私としては、もったいなくて仕方がありません。
たしかに日本は豊かになりました。しかし日本には資源は少ないのです。エネルギーも“ただ”で生産されるのではありません。“もの”を大事に使う、“食べ物”を粗末にしない……省資源は社会的、公的な場だけの問題ではなく、皆で実践すべきことです。そして子供たちの世代にもよく伝えるべきだと思います。


39. 西安の旅

1992年(平成4年)11月

 先日、1年半ぶりに所用で中国を訪問しました。その折、古都西安(昔の長安)を観光する機会に恵まれました。
 ここ長安はかって秦・漢・隋・唐などの王朝が国都を置きつづけた土地です。特に唐の時代、シルクロードの出発点として隆盛を極めました。付近には数多くの遺跡が点在しています。秦の始皇帝陵を守るために作られたという兵馬俑(陶製の人形)には驚きました。甲冑に身を固めた180センチほどの兵士と馬、今にも動き出しそうなほどリアルに作られています。始皇帝の近衛軍団の縮図だそうです。陵の近くで発掘された銅製の馬車もありました。実に精巧でこれが紀元前200年に作られたものとは、とても思えません。
 陜西省歴史博物館には唐時代の墳墓からの多くの出土品が展示され、壁画実物は当時の様子をよく描いています。大きなカルチャーショックを感じた旅行でした。
 我々は今、製鉄技術の面では中国より優位にあると思われます。しかし歴史をたどってみると、文化的には中国は早くから花開き、我々は実に多くのものを中国から学んできたのです。いつの日か立場が変わることだって起こるかも知れません。技術指導といった面でも、私たちは謙虚さを失わず、お互いに切磋琢磨するという気持ちで努力したいものだとしみじみ思ったことでした。

40. 太地喜和子さん

1992年(平成4年)12月

 社内誌に太地喜和子さんと私との対談が掲載されました。まさに“今を大切に”をモットーに努力を重ね、これから更に大女優へ成長されると期待されていた太地さんは……しかし、10月13日不慮の事故で還らぬ人となりました。予想だにしなかったので事故のことを知った時はしばし呆然となりました。
 太地さんはその時「唐人お吉ものがたり」に出演中でした。幕末、日米通商条約の締結を迫るハリスのもとに、奉行所の強制で、芸者お吉が呼ばれます。役人ばかりか、言い交わした男にまで説得されて泣く泣くハリスのもとに通ったお吉、そのお吉を世間は「唐人お吉」とさげすみ、中傷は絶えず、哀れな末路をたどるのです。「お吉はただ強いだけではない。幕府、権力におもねらず、信念を通し切ってしまう、そんなしんの強い女を演じたい」と語っていましたが、喜和子さん自身「いったん引き受けたからにゃ、実をつくさないじゃいられない」タチで、体当たりで演技しているように感じました。
 対談の途中で「いいかげんな気持ちでやっていて、交通事故で死んだりしたら死にきれない。くやしくて」という言葉がありました。今考えれば言いあてられたようでぞっとします。天の非情さに逆らいたくもなるような思いですが、しかしこの役柄を一所懸命に演じた太地さんに後悔はなかったと思います。
 対談を終わって夕食をともにしました。大変楽しいお酒でした。「11月下旬には暇ができるので、その折またゆっくりお会いしましょう」と約束して、それっきりになりました。
 “一所懸命”は私たちの仕事の場でも大切な心がまえです。そうでないと後悔が残ります。女人哀史を自作自演されたような太地喜和子さん!只ただご冥福をお祈りします。

41. 接客の基本

1993年(平成5年)4月

 最近経験したことです。
その1.コンサートにでかける前の腹ごしらえで、レストランでトンカツを注文しました。あたりを見ますと客はまばらで、レジの横で3人のウェイトレスがおしゃべりをしています。ふと見ると私より後で入って来たお客に、トンカツが運ばれています。「ちょっと、ちょっと、ここはまだかね?」「あれーっ、未だですか」……仲間で話をしていましたが一人が「すみません。忘れていました」というのです。もうその時は15分ぐらいしか余裕がありません。「そりゃーないよ……何してるんだ……。用事がある。もう間にあわない。こまるねー」と嫌味をこめて言って席を立ちました。

その2.駅で少し時間があったので、喫茶店でコーヒーを注文しました。カウンターの向こうに一人、こちら側に一人、ウェイトレスは注文を聞き、伝票を並べ、空いたテーブルをかたづけたり、忙しく働いています。カウンターの中の人も軽食を作り、代金をもらい、と絶え間なく仕事をしています。ふとウェイトレスがそばへ来て「すみません。もうすぐですから」と言うのです。私が時計を見たのに気づいたのでしょう。事実そのあと直ぐコーヒーにありつきました。忙しい中にもお客に気を配り、一言声をかける、その一言でお客は待たされたことが気にならなくなります。
 数日後、テレビで旅館の女将さんを話題にした番組が放映されました。「お客さんに一番失礼にあたるのはどういう事ですか?」とのアナウンサーの質問に対しての答えをまとめると、「お客様から“おそいぞ”とお叱りを受けたり、私どもの従業員が“忘れていて申し訳ありません”とか“まちがえまして申し訳ありません”と言い訳をするようでは、私どもとしては失格だと考えております」ということでした。
 この女将さんたちの答えは、我々の仕事の場でもよくよく心すべき事だと思った次第です。


42. 自分をみつける

1993年(平成5年)6月

 現代の世相を見ていますと、保守から革新まで政治家が見せるあくなき金への執着はおぞましいばかり、×××事件で噂された人たちのキョトキョトと落ち着かない目をしながら、口の方だけは「俺はそんなことは知らん」という…全く嫌になってしまいます。
 政治家でなくても大きな組織の一員であったりすると、組織の力が自分の力であるかのように錯覚して、周囲の人々に威張りちらしたり、尊大な行動をしたりしがちです。人間の価値は我々一人ひとりの個人の価値そのものであるはずですが、実際は家・学歴・資格・肩書き…といった付加価値で値打ちが決まることが多いようです。自分自身、このような付加価値を振り回して世渡りをやっていないかどうか、よくよく反省して見たいものです。
 ある哲学者の言葉に「世の中で一番難しいことは自分を知ること、一番やさしいことは他人を批判すること、そして一番楽しいことは目的を達成すること」というのがありました。
 自分を知ることは大変難しいことです。まず謙虚な姿勢が必要です。仕事の場でもその他のことについても、今自分が置かれている状況をよく認識し、自分の在りようを客観的に眺める冷静さが必要だと思います。そして仕事であれば、効率的に、より高度な成果を目指し、周囲におもねることなく、あらん限りの力を尽くすことが大切です。
 わかり切ったことですが、このメッセージも今回で終わることになりますので書きました。

43. 終わりに

 社長に推挙されました時、社員の皆さんと出来るだけお会いしたいと思ったのですがとても実現できそうになく、せめてこのメッセージで、一方通行ではありますが私の思いや考え方をお伝えしようと考えて始めたことでした。
 “世の中で一番楽しいことは目的を達成すること”と書きましたが、今このメッセージを書きながら「あぁ、やっと終わった」という満足感を味わっています。これからは又、別の新しい目標を自らに課して進みたいと思っています。
 暫くは不況が続きそうですが、“朝の来ない夜はない”のですから、夫々社業の充実に寄与していただくよう願って筆を擱きます。