偶感 1   2003年12月
偶感 2   2004年 1月
偶感 3   2004年 1月
偶感 4   2004年 2月
偶感 5   2004年 2月
偶感 6   2004年 2月
偶感 7   2004年 3月

偶感 8   2004年 3月
偶感 9   2004年 4月
偶感 10   2004年 5月
偶感 11   2004年 6月
偶感 12   2004年 7月
偶感 13      2004年7月
偶感 14      2004年9月

偶感 14                     2004年9月
アメリカがイラク人の捕虜を虐待しているとの報道があり、アメリカ国内でもブッシュ大統領ならびに共和党政権が大きく批判されたことは未だ記憶に新しい事です。そこで彼らはいち早く捕虜虐待を行った連中を厳重に処罰したと報道されました。
元来アングロサクソン人は狩猟民族で獲物を求めてそれを生きる糧としてきました。それが生存の必須条件でした。ですから獲物を獲得すればそれを殺戮することに躊躇しないのです。WASPといえばアングロサクソン系白人のプロテスタントで初期のアメリカ移民の子孫たち、彼らがアメリカ社会の主流をなしてきました。彼らには狩猟民族の血が色濃く流れています。農耕によって大地から得られる収穫は天からの恵みだと感謝して共同生活を営んだ農耕民族である我々日本人とはそもそもの行動様式が異なっていると考えます。
先の戦争で多くの日本人が捕虜虐待の故をもって処刑されました。「私は貝になりたい」というドラマがありました。なお多くの人の記憶にあると思います。それは主人公が意味なく絞首刑に処せられるとき遺した言葉ですが我々にとってはまさに悲痛なものでありました。そういうことを平然として行う連中であるということをよく覚えておかねばなりません。イラクでの捕虜虐待も同根だと思っています。
イラクに対するアメリカの考えはなお長く論争の的になりましょうがその是非はともかくとして虐待は許されることではありません。民主主義を標榜し口にヒューマニズムを強調しながらも、敵対する者への容赦はありません。しかし今回の事態は現ブッシュ政権には痛棒を与えたようです。が、本質的には変わりはないと私は思っています。これは後述する人種差別に根元があるのではないかと私は考えているのです。

以下は私の浅薄な歴史知識の羅列ですが……18世紀がスペイン・ポルトガルの時代であるとするならば、19世紀はイギリス・オランダ・フランスそれにアメリカが加わっての時代と言えるでしょう。18世紀イギリスに起こった産業革命で鉱工業が飛躍的に進歩し、イギリスを始めとする各国は資源の入手と製品を販売して得られる富を求めて海外に力を伸ばしました。殊にイギリスは「我が領土に陽は沈まない」とまで豪語したほどの植民地支配です。
19世紀後半、日本は幕末の頃、アジアで彼らの支配に入っていない国は門戸を閉ざしていた日本だけになっていました。彼らは当然のように日本を植民地にしようと考えたに違いありません。たまたま日本は尊王か佐幕かまた開国か攘夷かにわかれてその相克で揺れに揺れていました。結局大政は奉還され明治維新を迎えるのですが、大雑把に言えば日本としては国家としてのこの難しい局面を国の一部を外国に切り取られると言った決定的な失策もなくよくも乗り切ったと思います。……ペリーの来航と幕末の混乱、イギリス・フランスのわが国への内政干渉、ロシアの南下など欧米諸国のわが国への圧力は強く日本は不平等条約を結ぶことを余儀なくされたり植民地化への脅威にさらされていたのですから。
明治時代になりましたが欧米列強の軍事的脅威は我が国の指導層には大きな恐怖感を与えたと思います。というわけでわが国は急速に近代化に向かうことになります。立憲君主国家として、学制・兵制・税制等々を整備し、近代国家としての体をなす実に広範な改革が行われました。その間にも列強の露骨な脅威は続いていました。富国強兵が急務として進められたのは当然でした。
その時点では朝鮮半島が日本に敵対する列強の支配下に入れば日本の防衛が困難となることは目に見えており、朝鮮の近代化を援助しました。ひとつにはロシアの南下によってその力が朝鮮に大きく影響すること、もうひとつには朝鮮が宗主国としている清国が朝鮮への支配を強めることを警戒しなければなりません。
紆余曲折はありましたが1894年に起こった甲午農民戦争を収めるため朝鮮政府に要請されて出兵した清国軍と李王朝との申し合わせで日本の権益擁護のため派遣した日本軍の間に衝突が起こり(日清)戦争になりました。日本はこの戦争に圧勝しますがそれは日本人が自国のために献身する考え方が確立されていたことが最大の勝因であったと考えられます。
1895年日清両国は下関条約を結び、清国は朝鮮の独立を認めるとともに3億円(当時の政府収入の3倍に相当)の賠償金を支払い、遼東半島と台湾を日本に割譲することになりました。しかし日本が簡単に列強と対等になることは出来ませんでした。東アジアに野心を持つロシアはドイツ・フランスと語らって遼東半島を清国に返還するように日本に迫ってきました。所謂「三国干渉」です。清国に勝利したとは言え、とても三国に対抗する力を持たない我が国としては涙を呑んで若干の賠償金で遼東半島を還付しました。ここから日本の臥薪嘗胆が始まります。それを合い言葉にロシアに対抗するため国力を充実に努めたのです。
一方その底力を恐れられていた清国が日清戦争でもろくも敗れたため列強諸国は清国に群がりそれぞれ租借地を獲得し東アジア進出の足がかりを築きました。ことにロシアは租借という名のもとに僅か2年後には遼東半島に軍隊を入れて奪ってしまい旅順を軍港に、大連を通商港としこの地域を要塞化してしまいました。その野望恐るべしです。
この弱肉強食の時代に武力の弱い日本に何ができたのでしょうか。力のある大国と同盟関係を結ぶしか方法はなかったのです。そして政府内で親露か親英かで論争がありましたが、ヨーロッパでは「ロシア国家の本能は略奪である」といわれていたこともあり、外務大臣小村寿太郎や桂太郎首相の判断で「日英同盟」が締結されることになりました。この判断は正しくその後20年余日本の安全に大きく寄与しました。余談になりますが今このような決断のできる政治家がいたらとしきりに思います。
その後ロシアは満州の兵力を増強しさらに日本が生命線としている朝鮮の北半分まで要求するようになりこれに反対した日本との談判は決裂し遂に(日露)戦争の突入しました。戦場になったのは朝鮮と満州でした。日本は苦戦の末旅順を占領し奉天(現在の瀋陽)の会戦に勝利しました。しかし日本としては兵力・弾薬の補給が続かず広大なロシア大陸に攻め入ることは出来ず、これでロシアに勝利したことにはなりません。ロシアとしては日本周辺の制海権を確保すべくバルチック艦隊を派遣して劣勢をはねかえそうともくろみました。そして1905年5月27日、我が国としては国家の存亡を賭けた日本海海戦の戦端が開かれました。Z旗「皇国の荒廃この一戦にあり。各員いっそう奮励努力せよ」が旗艦三笠のマストに掲げられました。この海戦で日本の連合艦隊は世界戦史にも希なほどの大勝利を収めました。
しかしこれ以上の戦争の継続は無理でした。アメリカのセオドア.ルーズベルト大統領の時機を得た仲介があって講和会議が開かれ(ポーツマス条約)、日本はロシアに朝鮮の支配権を認めさせ遼東半島南部の租借権、南満州鉄道の権益を譲りうけ南樺太の領有を認めさせたのでした。しかし国民には国力が限界にきていことの認識が足りず条約の内容を不満として暴動を起こす人もいました。
その後資源の乏しい我が国としては国内の生産力を高める努力をしましたが狭い国内のみでは経済的自立が望めず、それを海外に求めるため且つ権益を得た満州を始めアジアに拠点を築くためにその地域に影響力を強めました。しかし移民は欧米各国の人種差別によってことごとく反発を受け、国民の欲求不満は高まって行きました。
この間第一次世界大戦があって日本は日英同盟に基づき連合国として参戦し、またロシアに革命が起こって共産党政権が独裁体制を築くという事態が起こりました。

第一次大戦後パリで講和会議が開かれて大戦の勝利に貢献したアメリカは国際連盟を提唱、平和を希求する諸国の賛同するところとなりました。これでアメリカの国際社会での発言力は急速に大きくなりました。この講和会議で日本は独自に人種差別撤廃案を提案し賛成が多数を占めたのですが議長役のアメリカ代表ウイルソンが、重要案件は全会一致を要するとして不採択を宣言しました。このことも多くの日本人の反発を生み、しかもその後も日本人移民排斥の動きは続きました。日本国内では移民を拒否するのは横暴な処置だとの見解が強く叫ばれるようになりました。
また国民としては日清・日露の戦争に勝利し列強何するものぞとの国家意識の高揚があったことは事実ですしその事が後年軍部が政治の主導権を握る一因になったかとも考えられます。
一方日本の急速な勃興を恐れた列強の日本への圧力はそれまでに倍するものになりました。石油を求める日本への圧力からABCD包囲網をしいて日本の締め出しにかかりました。それはA(アメリカ)B(ブリテッシュ〜イギリス)C(チャイナ〜中国)D(ダッチ〜オランダ)であり日本は孤立しました。この桎梏(しっこく)を何とか打破しようとしたのが第二次大戦勃発の最大因子ではないかと私は考えています。
また白人社会では人種差別から「黄過論」が起こってきました。ヨーロッパには13世紀モンゴルに侵略された時の恐怖が残っており、それが日清・日露戦争で日本が勝ったのを見てよみがえ蘇りこのままでは日本の指導する劣等な黄色人種によって優秀な白色人種が侵略される恐れがあるから日本を牽制しようという声が起こったようです。この黄禍論には多数の証言が見られます。白人指導者の中には「日露戦争にロシアが勝たなかったことは遺憾だがロシアは白人のために戦争をしたのだ。日本人は白人を悪魔のように憎んでいるが、日本人が悪魔であることは事実だ。我らに対する危険は日本ではない。日本が支那を統一しアジアの頭目になることは世界を脅威する最大の凶事だ」と主張してはばか憚らない人もいます。
この点について昭和天皇は戦後昭和21年に大東亜戦争の一因として「この原因を尋ねれば遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認するところとならず。黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否のごとき日本国民を憤慨させるに十分なものである。また青島還付を強いられたこと亦然りである。……かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ちあがった時に、之を抑えることは容易な業ではない」と述べておられます。昭和天皇の今次大戦勃発についての深い洞察の心を強く感じます。
かくて戦争に突入してしまったのですが、今次戦争を起こしたことで一つ遺憾なことは軍部の跋扈とそれを抑制する文民統制がなかったことそれのみが極めて残念なことであったと私は考えています。

以上が私の歴史小史です。
昭和初期私はこのような歴史教育を受け、幾多の将士が血と汗を流して日本の地位を築いてきたことを教えられました。現在では帝国主義による外交政策は侵略と呼ばれ、悪の元凶と考えられるようになっています。それも考えて見れば今次大戦の試練によって得られた人類の英知でありましょう。この戦争後極東裁判が行われましたがそれは勝者が敗者に対して行う或る意味の意趣がえしであり、しかもその中で悪は全て日本の軍閥・軍国主義だと断じました。しかしその底には人種差別の意識が厳然として在り、あくまで白人優位を保とうとする勝者の論理が見えています。狩猟民族の血はここにも流れており私のような農耕民族の血を受け継ぐ者としては深い違和感を覚えるのです。
思うに第二次大戦後多くの国に民族自決の声が起こり、かって植民地として搾取の憂き目にあって来たそれぞれの国民が解放され自立・独立しました。その糸口になったのが今次の大戦でありその中心となったのが日本であったことを思えば、日本が行為した戦争が「悪」であったと断定するのは如何なものかと考えます。それはあくまで白人の勝者意識から出ているのではないでしょうか。
戦争の功罪を論ずるには少なくとも100年は要すると言われますが、さらに多くの論証を経て多くの史家の証言をも得て判断すべきことでありましょう。

戦後59年目の終戦記念日を迎えますが現在もなお靖国神社参拝の問題が云々されますが何故でしょう。それが日本の国以外からなされることが不思議でなりません。一部マスコミもこれに付和雷同する向きがあります。何故それは内政干渉だとして強く排除の意向を示さないのでしょうか、このことこそ問題だと考えます。でなければ一旦国を挙げて戦争に突入した以上、戦勝に向かって共に戦うのは国民としての当然の努めであり、日清戦争以来幾多の将士が血と汗を流し身を戦陣に晒して戦ってきたことにどう言葉すればいいのでしょうか。

先日知人から日清・日露戦争時代の軍歌のいくつかをコピーしたものを貰いました。「貴方はよくご存知でしょう」という、見れば昔よく歌ったもので今でも歌詞は大凡覚えています。
軍歌はもとより志気を鼓舞するたぐい類のものが多いのですが当時の歌には戦争の一こま一こまを描いたもの、また戦いの悲惨な場面が描写されたものもあります。「勇敢なる水兵」は黄海海戦で名誉の戦死をとげた旗艦/松島の乗員の最後を歌ったものであり「水師営の会見」は旅順要塞を陥落させた後の乃木大将と敵将ステッセルとの劇的会見を描写したものです。「戦友」は今なお往々人々の口の上ります。それらの歌詞を口ずさみますと戦争のある断面が想起されてつい涙してしまいます。このような思いから日本を衣食足った今日の繁栄に導いてくれた幾多の人々に感謝を捧げることは当然のことだと思うのです。数年前鹿児島の知覧を訪ねたことがありますがまさに今次大戦に一身を賭して南海に散った若者の英霊にいかなる感謝の言葉を捧げたらいいのか、胸のつまる思いがしたことでありました。

終戦記念日を迎えるにあたり、国としての進むべき目標も模糊としていて張りを失ったような現在の世相を見るにつけ今更のように当時の世相との隔たりを感じます。昭和初期から第二次大戦を身近に経験した一人として感じていることを書き留めてみました。自己の思いを述べるにはなお筆力及ばず、忸怩たる思いですが敢えてアップしました。
(なお本稿は8月の終戦記念日にアップする予定でありましたが個人的な出来事があって月遅れになってしまいました。)
偶感 13                     2004年7月
今年は梅雨が早く始まり、そのさなかに大きな台風が襲来して豪雨に見舞われるといった按配で例年に比べて天候が異常です。さらに梅雨は明けたというのに新潟での集中豪雨は被害が大きく、さらに福井地区にも広がり住民には慰めの言葉もありません。早く復旧されるよう願っています。
しかし全国的にはいよいよ夏本番を迎えました。私は隠居して数年、次第に老化が進み暑さが身にこたえるようになりました。今回は少し私的なことを書いてみます。

我が身の健康のことです。……一昨年の春でした、友人数人と天ぷら屋で食事をしていて突然人事不省になりました。疲れを癒そうと冷酒を少し呑んだ時でした。隣にいた家内によれば頭を椅子の背にもたせかけた格好で、凄く発汗していて、ンでもスンでもなく驚いたらしいのです。こんな時は動かすといけないと考え、そっとしておいて救急車を呼ぼうとしました。たまたま近くにいた客に医師の方がいて、私の脈を診さらに胸を開けて心音を聞こうとされました。その時私は気がつきました。気がつけば何ということもありません。「明日は絶対に病院に行ってください」と言われその日は早めのお開きになりました。
翌日早速かかりつけの医師に診て貰いました。不整脈〜心房細動と診断されさらに大きな病院で精密なチェックをうけるようにアドバイスがありました。隠居するまでは毎年人間ドックで検査をしていましたが、もうそこそこの年齢になったしお迎えがきたらそれはそれでいいのではないかと考えて、以来毎年の検査は止めていたのです。しかしこのような病の兆候が起こったのでは仕方がありません。数日して全身に亘って検査をうけました。その結果はかかりつけの医師の診断通り「心房細動」でした。そして2ケ月に一度定期的に検査を受けることになりました。《実は心房細動は初めて耳にした言葉でしたが、しばらくして高円宮様が心室細動で亡くなられ、あぁ不整脈って怖いのだと驚いたことでした。》
毎回の検診では心電図と血液検査それに医師の診察があります。血液中のコレステロール値や中性脂肪値を下げサラサラした血液にしなけばれならないと指導され、以来そのための薬を服用しています。
医師によれば私には薬がよく効くそうで、その後血中の各値は急速に改善されまた心電図も異常は殆ど見られなくなりました。

このように私は心臓に多少問題を抱えていますから血液の状態を安定維持することが大切なのです。
医師「最近、お酒を飲んでいますか」
私 「週に1〜2回、少量ビールかワインを呑んでいます」
医師「今回は中性脂肪値もコレステロール値もあがっていますが何か食べ物が変わりましたか」
私 「とくに変わったことはないのですが……そういえば昨夜孫が来て一緒にトンカツをたべました」
医師「それですよ。トンカツはコロモに油を多く含んでいますからね」
私 「昨夜の今日、血中の値はそんなに敏感に変わるのですか」
医師「変わりますよ。しかし敏感に変化したのは肝臓がしっかりしているからですよ」
こんな会話があって薬を処方して貰うのです。私のコレステロール値は概ね基準値の上限に近い値なので少しでも減らしたいと考え最近は料理の皿数を減しました。そのお陰か2ケ月後の検診では数値は全て改善されていました。

私は粗食の時代というより食料不足の中で育ちました。動物性タンパクといえば魚「私は鰯で育ったのです」なんてよく言ったものです。今の若者は肉を多く食べます。ビフテキ、焼き肉、牛丼、……私の時代とは様変わりです。それにつれて日本人の体質も変化しました。生活習慣病という言葉も出来ました。その改善のためにカロリーの取りすぎに注意しようとか、もっと運動しようとか言われています。日本食ことに寿司がもてはやされています。
私の食餌も知らず知らずのうちに高カロリーになっていました。そこで肉から魚へ、量も減して、野菜を多く、満腹から腹八分へ、つまり今になって粗食へ回帰したのです。
近所の人で太りじしの人が以前のスマートな姿にもどったのを見て、何か食べ物を変えたのですか?と尋ねたら、テレビを見ながらおかきやポテトチップなどのスナック菓子を食べるのを止めたのですとの答えでした。スナック菓子は結構カロリーが高いのです。
町には多種・多様な食材があふれています。食材はそれぞれの特徴と栄養素を組み合わせて調理されますがレストランなどでは料理が色とりどりに並んでいて選択するのに時間がかかるほどです。菓子屋には何ともうまそうなケーキが並んでいて購買欲をそそられます。この頃は前を通っても我慢することにしています。私の場合、健康で生きるにはカロリーの摂りすぎに注意するのが一番だと思い知らされましたから……。

先日デパートの食品売り場で「十穀」と銘打った商品を見つけました。五穀は米・麦・粟・キビ・豆、しかし五穀は穀物の総称であると理解していますので「十穀って何だろう?」と手に取ってみました。袋の裏面には胚芽押麦・黒豆・糯黍・糯粟・緑豆・小豆・黒米・発芽玄米・黒ゴマ・アランサスとありました。
調べてみました。糯(もち)の代表は糯米で粘りけが強く搗いて餅になるもの、糯黍や糯粟はそれぞれ黍・粟の一種、また黒米は玄米の別名ですし発芽玄米は籾殻のついた玄米、アランサスは稗の一種なのだそうです。緑豆はどんな豆かわかりません。しかし概ね五穀と大差のない穀物です。
私の育ち盛りの頃は麦を少量混ぜた米飯を食べていましたし、時には玄米が体にいいんだと食しました。白米だけでは撮れない栄養を玄米や胚芽米などから摂取するのだと聞かされ食べたものでした。貧富の差があった時代、粟とか稗は貧しい人たちの食するものでした。粟など今は小鳥のえさです。
どうして今これを商品としてわざわざ販売しているのだろうと不思議な感じです。試してみようと思い一つ求めました。普通の米に混ぜて炊きました。小豆や黒豆のせいで少し赤色をおびた飯ができました。懐かしいとは思いませんが昔食べた記憶が多少戻ってきたように感じたことでした。しかしやはり米飯が一番美味しいと思います。飽食といわれる現在何故こんなものが珍重されるのでしょうか? これはどうやら米穀販売業者がそのような穀類の販売を増やすための手段ではなかろうか、それと昨今はやたらと健康食品が話題になりますがその影響か、つまり我々は商業主義に乗せられているのではないかと密かに考えた事でした。

健康維持には運動も大切な要素です。かかりつけの医師に「少し腹がでて困るので腹筋の運動でもしようかと思いますが……」と尋ねたら「それはおやめになった方がいい。貴方のお歳で無理な運動は筋肉に色々影響します。糖分の摂取を減らすことです。コーヒーに入れる砂糖を減らすとか、コーヒーを紅茶にするとかですね……」との答え、ここでも過度のカロリー摂取を戒められています。
そして「運動はウォーキングが一番ですよ」と言われました。ウォーキンギは私の健康維持のための唯一の運動でこれまでも実行してきました。今は犬を連れて近くの隅田河畔を歩くのが日課です。一日約1〜2時間くらい、そのためにも犬は健康でいて欲しくてやや肥満気味の愛犬の減量にも取り組んでいるところです。

昨今は不整脈の他に時々歯の治療、眼科の検診にも行きます。また聴力が低下して息子や孫からテレビの音が高過ぎると言われます。最も気になるのは頭(?_?)エ?です。大変忘れっぽくなりました。顔は知っていて名前が思い出せない、何か探しに2階へあがったのに何を取りにきたか思い出さない……こんなことが日常茶飯事に起こります。こうして文章を書いていても言葉がスムースに出ないとか、ですから偶感もなかなか纏まらなくて困ってしまいます。このような老化を自覚し或る程度は仕方ないと諦めますが、少なくとも自分の足で歩き元気に社会生活を続けたい、周囲には介護を要する人も相当多くそんな人の事を聞くにつれ自分のことは自分で処理したいと願い、その程度に健康でありたいと考えているのです。最近新聞の訃報欄に歳の近似した人が多く、私としてはピンピン・コロリを願っているのですがこればかりは自分では決められません。
偶感 12                     2004年7月
昨今小学生の痛ましい事件が多発し悲しいことです。なかでも佐世保で起こった女子生徒の殺傷事件はインターネットのメール交換が引き金になったようです。そして例によって「こんなことが2度とおこらぬようにどうするか」が識者の間で論じられています。ある小学校で生徒に「死」について考える授業を実施、それがTVで放映されていました。「人間は死んだら生き返ると思うか?」と質問し「死んだらどうなるのだろう?」といったことについて生徒の意見を求め、人を殺すのは許されないということを生徒に自覚させるのが目的のようでした。小学生には難しすぎる問題です。それより「生」きるというのはどんなことか、その生を如何に生きるかを考えること、そのために為すべきことを論じ合うのが良いと私は考えます。

戦争に敗れて大方の国民が無気力になった時期から立ち上がり高度経済成長で努力を重ね、それが成功して経済大国になりました。私の学校時代は戦争に明け暮れ戦後間もなく社会に出て世の中の推移を経験しながら生きてきました。一粒の米も無駄にしてはならないと教えられた少年期、戦争末期から戦後数年は飢餓寸前の状態を経験しました。それはそう長い時期ではなく程なく食べることに不足は無くなりました。飽食と言われる時代になって相当の年月になります。あれは第一次オイルショックの時でしたかトイレットペーパーがなくなるというので買い集めに狂奔したこともありました。こう言えば時代背景が直ぐ頭に浮かびますが、あの頃でも子供同士が殺しあうようなことは起こらなかったと記憶しています。何不自由もない今になって何故怖ろしい嫌な事件が発生するのでしょうか?教育の問題だと言われます。たしかにそうです。しかし教育に欠陥があるとすればどう改善すればいいのでしょうか?

子供の教育は先ずは親や家庭内での躾が大切だと考えます。最近は幼児虐待の事件を度々耳にします。本来親は子供を慈しみ育て次世代をその子供たちに託して時代は変遷していくのが自然の姿だと思うのですが、どうやらそういった親としての資格のない人がいると考えられます。では何時ごろからこのように変化したのでしょうか。そう以前のことではないように思われます。
考えてみますと高度成長期を支えたのは団塊の世代と言われた人たちまでの世代でありましょう。この世代は戦争を直接体験しあるいは親や教師からその経験を教えられた世代であり、すくなくも生長の過程で程度の差はありましょうが貧しさを知っている世代と言えると思います。テレビ、洗濯機、冷蔵庫といった家庭の主婦の労働を大きく軽減する機器が次々と開発され普及する中で育った世代と言えるかもしれません。その後、車社会の到来になるのですが今の若者の多くは生まれたとき各家庭に既に文明の利器があり、車があり、昨今では小学生でも60%は携帯電話を持っており……、こんな中で享楽が身近にあり全く我慢することを知らないで育ってきた世代といっても過言ではないでしょう。
団塊の世代もようやく分別くさい年齢にさしかかり今その次の世代が社会の中心となって活躍していると考えます。年金問題で話題を呼んだ出生率が2.0を割ったのが1975年、どうもこのあたりに境界があると考えます。この頃以降、出生・育児・躾といったことのありようが変化したと私は考えています。

何故このようなことを述べるかと言えば現代は物質万能の世の中で、私にはこの物質万能の考え方こそが個の存在を抑え人間の心を喪失させてしまったと考えられるのです。空にジェット機が飛び交い地上には新幹線が走り旅行者は景色を楽しむ暇も在りません。“広重”描くところの東海道五十三次の風景などはまさに絵空事です。テレビは世界各地の出来事を絶え間なく報道しまた娯楽から教養まで昼夜を分かたず多種の番組を放映しています。ドラマに××殺人事件といったものが多いように感じますがこんなことが現実につながるのではないかと思うこともしきりです。さらにパソコンが世の中を大きく変化させました。パソコンの力を軽んじて言うのではありませんがパソコンや携帯電話を媒体にして売春とか詐欺とか反社会的行為も行われていることに危惧の念を抱くのです。人々に利便をもたらし豊かな暮らしの実現を通して幸福でゆとりのある日々の到来を願った筈の物質文明は今、人々の心を蝕み人々はそれに押しつぶされているように思われるのです。そこに小学生らの悲しい痛ましい事件が起こりました。

都心の盛り場で男児がビルの自動回転ドアに挟まれて死亡するという事件が起こりました。2〜3日前の新聞によればこのような事故再発防止のために国土交通・経済産業両省が主催して「自動ドアの事故防止対策に関する委員会」が行われ「回転ドアの速度を秒速65センチにする、ドアと外壁の端に衝撃緩和材をとりつける、緩衝材に接触した場合センサーが働いて自動的に停止する……」などの安全策を講ずるようにもとめる、との結論を出したそうです。
自動ドアはたしかに便利ではあります。社会は便利さを求め企業は利潤追求に走りそのもたらすデメリットまでは考慮していません。それは一人ひとりが対応すべきこととし、不具合なことが起こって初めて対策を講じるという図式をとります。そこが文明は個の立場を没しさると表現した所以です。
しかしその利便性と隣り合わせの危険に対してその危険を防止するためにさらに防護対策を施す……私はこんな検討は事故の本質になんら迫っていないと考えます。私はビルのドアの全てを回転式にかつ自動にする必要はないと思うのです。便利さの裏には必ずリスクも伴うということが忘れられています。親は子供が回転ドアを通るとき、その都度挟まれないよう注意すべきです。用もないのにドアを通らないようにも言い聞かせることが大切です。親は子供に“自分の身は自分で守る”習慣を身につけるように言い聞かせる、それが躾だと考えています。幼い子供を連れていれば親は子供の手を離さないでしょう。手を離しても大丈夫と思った時初めて手を離すのです。

この卑近な例から理解できるように物質文明は我々に個の心を忘却させてしまいました。回転ドアの対策は意味がないと言うのではありません。その対策を行う前に為すべきことが忘れられている、その意味からすれば事故防止対策は本末転倒ではないかと言いたいのです。
しかも物質文明が個を没しさるのはそれだけではありません。我が国固有の文化を軽視する風潮をももたらしたように感じています。昔私たちが育ったころのしきたりをそのまま現代の子供たちにも伝えて欲しいと願うのではありません。しかし祖先の供養とか日本古来の祭りとか、日本の自然環境を大切にしその美を賛美するというような「心」の育成は大事にしたいと願いたいのです。これが若者の心の荒廃を救う一助になればと思っています。

さて昨日の新聞に一部大企業が母体となって中高一貫の学校を設立する計画があると報道されていました。この学校は一学年男子120人規模で「全人格教育」を趣旨とし全寮制を掲げています。教員免許を持つ寮長を中心に規律ある生活を過ごすなど生活面での指導が重視されるとあります。そして基礎学習や日本の伝統文化を重視、さらに現在学校現場で軽視されがちな古典や日本史も重視する方針とありました。
私は旧制高校を卒業しましたがあの時代に受けた教育がその後の人生に極めて大きな支えを与えてくれたと今になお当時を懐かしんでおりますが、前述の一貫校の趣旨はまことにそれに近似しています。もっとも実施してみなければ好悪はわかりません。しかしその意図するところに大いなる賛意を表したいと思います。成功することを願い、このような試みが今後の我が国の教育に良い先駆となればと思っています。

痛ましい小学生の事故に話を戻します。文明の普及は思わぬところに大きな歪みを作っているということに気付かねばなりません。我々は個々の自分をもう一度よく認識しなければなりません。子を育てるのは親!物資万能の中にあっても日本文化の美点を子に徹底して教えこむことこそ最も大切なことと考えるのです。その意味で前述の中高一貫校が若者の教育改善の大きな一歩となることを、そしてこのような試みが成功裏に進展することを願って筆を擱きます。
偶感 11                      2004年6月
長い間製造業に従事しました。最初は自己研鑽(技術者でしたから現場の仕事を覚えること)から始まって、部下を持つようになるとその管理とか技術全般に亘っての問題処理とか色々と経験しました。やはりどうしたら多くの人が目的に向かって足並みをそろえて行動してくれるかという、つまりリーダーシップの発揮がもっとも大切なことでした。

自分としてやりたいことがあっても上司の許可がないと実現できないことがあります。「この上司は何と度量の小さい人だろう」と腹の中では蔑んだことでした。そして自己責任でそれが可能となったとき実行し成功したこともあります。失敗し始末書を提出して身柄を上司の判断に委ねたこともありました。
新しい試みを実行するには生半可でない勇気と決断がいります。サラリーマン社会では失敗したら一生日の目を見ずに終わるようになるかもしれないからです。それでも自分として会社に貢献できることだからと思い進めたものでした。そしてそこから前進しようとする行動に人間としての進歩があると考えています。

この勇気と決断の行為は歴史にその例が多くみられますが中でも私は信長の「桶狭間の戦い」に最も強い印象を感じます。
…永禄3年5月19日今川義元の首一つに自らを賭けた信長の怒濤のような襲撃は見事成功し、ここから天下統一の道をひた走ることになります。まことに希な奇襲の成功でありその故にこの事実は信長の特質を称揚して語られているように思います。
しかしこの時の信長の思いはどんなものであったろうと考えるのです。

禅の公案に「竿頭進歩」というのがあります。
…百尺竿頭、如何が歩を進めん。
長い竿の先に上りつめたところから更に一歩を進めるとはどうすればよいかという問いです。長い竿の先まで上っているのですからもう上ることはできません。そこから一歩踏み出せば落下するほかないのです。この公案の真意の理解は私には難しいことです。あえて言えば「そこから一歩踏み出してみる」その決心をするときの思いではなかろうかと考えます。自らを脱ぎ捨てなければ一歩を踏み出せないのではないかと思います。
私などの企業の中での試みにしても決断には少なからぬ考慮と決心が必要だからそう思うのですが、決心すれば意外と透徹した清澄な気持ちになれるように思います。
信長の心境もその一歩を踏み出すことであったろうと推察しています。しかも信長はいつも長い竿の先に居て、すること為すこと全て先に何が起こるか容易に判断できない立場に置かれていたのでしょうから感じる苦痛は大変なものであったろうと思います。まぁしかし信長にとってはこの桶狭間の時が最大の次の一歩であったのではないかと思うのですが……。

話は急転しますが小泉首相の今回の北朝鮮訪問に対して毀誉褒貶相半ばしている感じです。既に帰国されている地村さんと蓮池さんの子供さんたちの帰国は実現しました。しかし曽我さんのご家族の帰国はペンディングになり、また消息不明の人たちは更に調査すると北朝鮮が約束するにとどまりました。この不明の方たちの家族からは首相にたいして極めて大きな失望と批判が発せられました。25年以上も生死不明なのですから首相の訪朝への期待が大きかったのでしょう。批判はわかる気がします。
しかし考えてみれば拉致問題が提起されて以来小泉首相に至るまでの歴代首相は何か行動されたのでしょうか。一昨年の小泉首相にとっての初めての訪朝時もそうだったのでしょうが、「誰かが始めなければ何も始まらない」と自ら行こうと考えた時の小泉首相の決断こそ「竿頭進歩」の一歩であったのであろうと今にして考えます。それだけに先の訪朝で拉致問題解決の糸口を作り、今回さらに推進しようとして出かけたのでありましょう。その決断は余人では推し量れない程のものであった筈です。そう考えると背後に隠されているであろう事実?を知らない我々が安易に批判するのは如何なものかと私は考えるのです。
私は小泉首相の信奉者ではありません。しかしこの決断に潜む勇気には拍手を惜しみません。彼のこの行動のお陰で拉致問題が大きく前進したことは間違いのない事実であり、そして北朝鮮に対して次の一手を残して、今回のサミットでは北に関しての発言に各国首脳も耳をかし賛意を表したやに報道されています。

私見になりますが小泉首相は着眼点はいい所が多いと思います。残念ながらその考えを実現したり実行したりする事務方がどうもしっかりしていません。そして足を引っ張る輩もいます。しかも首相の国会での説明は不十分の誹りを免れません。そこから政治の不透明さが出てくるのではないでしょうか。
…道路公団民営化の問題は竜頭蛇尾に終わった感じです。
…火をつけた年金問題は益々混迷していて、これが次の選挙の大きな争点になるでしょう。
…憲法改正についてもどうなって行くのか大方の国民の望む姿に改正がなされるかどうか不安です。かけ声だけにならないよう監視を続けなければなりません。
…最も期待している教育改革がなかなか進展を見ないことに苛立ちを感じている人は多いと思います。
…自民党の体質が良くならなかったらつぶすと言っていましたが……?金権的体質は未だに改善されず、国民の不信感の元はここにあるのです。対抗すべき野党の力不足に救われているのです。
これでは折角の「竿頭進歩」の一歩の価値がずいぶん割り引いて評価されることに
なってしまいます。
もう一つ私は特に外務省の能力改善を望みたい。北方領土はいつになったら返還されるのか国民はその速やかな帰趨を強く待ち望んでいます。対中国そして対北朝鮮、すっかり足下を見られているようで対応のひよわさに切歯扼腕の思いです。我が国として内政干渉めいた介入には毅然と対応し、主張すべきは堂々と主張して、関係の改善を図って欲しいと願っています。

「竿頭進歩」で一歩踏み出した以上やめたら挫折と屈辱の闇の世界に落ちてしまうでしょう。首相が挫折したら国民はどうなるのでしょう。生半可で首相に選任されたのではないことはご本人は百も承知の筈、また一国の首相となれば批判があるのは当たり前、それにうち勝って自己の信ずるところを具現して戴きたい、そして「国民が此の国に生まれて良かった」と思えるような国作りに励んで戴きたいと念願しています。
偶感 10                      2004年5月
青葉若葉の美しい風薫る5月です。ゴールデンウイークはあっという間に過ぎ、早や雨期が近くなりました。老齢者は世の動きを観察しつつもじーっとして、日々散歩や読書に明け暮れています。
そんな一日、市川海老蔵の襲名披露で大にぎわいの歌舞伎を鑑賞しました。お目当ては「口上」と「勧進帳」です。成田屋(市川家の屋号)は歌舞伎界随一の名門ですがそこに伝わる「にらみ」という儀式を見ました。それぞれ口上を述べた多数の先輩俳優が居並ぶ中、三宝を片手に片膝を立てた姿でぐーっと目を見開いたその迫力はやはり並でない器を感じさせるものがあり、大向こうから大喝采でした。

皆さんご承知の「勧進帳」は歌舞伎十八番に数えられる出し物、何度見ても面白く感動を覚えます。今回は団十郎の弁慶、海老蔵の富樫それに菊五郎の義経で見る前からワクワクです。たまたま団十郎丈が急病(急性骨髄性白血病の由…歌舞伎界の至宝、早く快癒することを期待しています)で親子の共演がなかったのは残念でしたが代役の板東三津五郎丈は大熱演でした。
動の弁慶、静の富樫、 弁慶が空白の巻物の勧進帳を読み終えるや…
富樫 “勧進帳聴聞の上は、些かも疑いあるべからず。さりながら、事のついでに問い申さん。世に佛徒の姿さまざまあり。中に山伏は、厳めしき姿にて仏門修行も訝かしし、これにも所由(いわれ)あるや如何に。”
弁慶 “その由来いと易し。それ修験の法といっぱ、胎臓金剛の両部を旨とし、剣山悪所を踏みひらき、世に害をなす悪獣毒蛇を退治して……”
両者の丁々発止のやりとりが見ものです。また一旦は通行を許可しながら強力(ごうりき)姿の義経が見とがめられると、弁慶は心を鬼にして主を打ちすえます。その弁慶の苦衷を察して富樫は一行が義経主従であることを知りながら関所の通過を許します。
さらに関所を過ぎて休息をとった一同は弁慶の機転をほめますが弁慶は主君を打擲した詫びをいい義経の境遇を嘆きます。「ついに泣かぬ弁慶も一期の涙ぞ殊勝なる」という感動の場面です。そして最後は飛六法で花道から一行の後を追います。

阿国(おくに)という女性が男装して「かぶき踊り」を踊ったのが歌舞伎の創始(1604年)とされていますが、その後幾多の変遷を経て元禄時代多くの名優が輩出して華麗な舞台が現出しました。芝居見物は江戸庶民の楽しみでありました。歌舞伎の美は庶民の嗜好によって育てられたともいえましょう。その様式的美もさることながら演目に含まれる日本的美意識が我々に感動を呼びます。「勧進帳」での義経・弁慶の主従の“情”、関所を通る困難を敢えて選択した“勇”、「為にするところなくして為す者は義なり」(墨子)の“義”を行為した富樫など、こんな思いこそ我々の心をゆさぶるものだと思います。それは時代を経て武士道として日本人の倫理観の基本を構成することになったと考えます。
歌舞伎がもてはやされていますがその因の一つは絢爛たる様式美を鑑賞することにあります。そしてもう一つは中味にある日本人の心情を体感したいためではないでしょうか。比類のない日本の文化を大切に残したいと思います。

さてこれまで偶感に度々触れてきましたが戦後我が国固有の伝統と美風が失われました。国民の心をないがしろにする教育が行われ、徳育は全く無視され、個の尊重をのみ重んじ家族間や周辺共同体との連帯意識を軽視する風潮が滔々として世を覆いました。その結果は歴然としています。自らの国をさげすむ人々を産み、尊属殺人が茶飯事のごとく発生し強盗・ひったくり、さらには中高生の無軌道な犯罪などなど、目を覆いたくなります。老齢者の我々には日本の先行きが案じられて仕方がありません。ではどんな対策を講じたら日本的美風はよみがえるのでしょうか。

その為には私は@先ず家庭内での教育や躾を重視すること、そしてA日本の美を若い世代に植え付けること。それを家庭内で、地域社会で、……賛同者に呼びかけ行動したらと考えます。
やや我田引水かとも思いますが、歌舞伎の鑑賞を奨めるのも一つの方策でしょう。芝居という媒体を通して若者の心に日本人の血に流れる美を尊ぶ意識を発見させたいのです。「勇気」「礼節」「互譲」「信義」「慈悲」…かっては我々の中に当然に存在した心を学び取ってもらいたいのです。
もう一つ、自然に親しむ機会を作ることです。昔は故郷というものがあってそこに回帰して雑踏の中で疲れた心を癒したものでした。機械化され無機質になった社会、白痴的テレビの番組に埋没してしまうのは愚なことだと考えます。幸い日本は地理的に広く温帯域にあり、そこでの自然の変化から多くの学ぶべきことがあるように思います。土に親しみその恵みに感謝する、そして四季の変化豊かな自然の美を体感することが極めて望ましいと考えるのです。
この活動の為にはしっかりした家庭がなければなりません。親が子を育てるのです。学校が子供を育てるのではない…学校はそのサポートをするのです。家庭の中で先ず美しい日本語を使うこと、それには両親が美しい日本語を活用することが必要です。これも子供たちと一緒に実行すればなお効果も高いと思います。知識の多くは学校で付与されましょうが、その基礎となる人作りはやはり両親・家庭において行われるべきだと考えるのです。

このような活動と並行して義務教育での道徳観念の植え付け、それと正しい「歴史認識」を持つように指導すべきだと考えます。ゆとり教育だの何だのと言うのはしばらく置いておいて早く手をつけるべきですよ。小学生に英語を教えるなどということより優先して実行すべきことではないかと思いますよ。
昨今ようやく教育の改善が識者の間で叫ばれるようになりましたが、具体的にどうなるのでしょう?政府は本気に実行するのか未だ明確ではありません。こんな悠長な在りようでは日本の将来は見えてきません。

もう一言、正しい「歴史認識」を挙げましたがその前に現在の義務教育に携わっている教職にある人たちの適性審査も実施しなければなりません。自虐史観に染まった教師では困ります。この国の教育を蝕んできた日教組の影響から脱却する必要がありますからね。とにかくこのような論議を一日も早く開始して欲しいと切望しています。
一介の老齢隠居の身には大きな力はありません。若者の健全な社会が実現されることを望み、そうすれば日本の将来は安泰になると確信し、私の思いに多くの賛同者が出来て私の希望が実現されることを願って提言した次第です。
偶感 9                      2004年4月
再びイラクについての話です。すっかり人質事件に振り回されマスコミも大々的に取り上げています。
人質事件には多くの国民が一喜一憂しましたが誘拐された人たちが無事解放されて何よりでした。そして今、自己責任問題で議論百出しています。曖昧な知識しかないない私が意見を述べるなどは烏滸がましいのですが、考えてみれば人質になった人がイラクに入国しなければ事は起こらなかったわけであの人たちへの批判が多いのは当然でしょう。私はやはり彼らの考えが甘かったのではないかと思っています。
イラクはサダム・フセインをアメリカが打倒してくれたとはいえ、これまでアメリカに搾取されてきたとの思いが強くまた無辜の民が多く殺傷されており、反米に走っていることは疑いもありません。アメリカはイラクに民主主義を導入しようとしていますが、第二次大戦後日本の民主化に成功したようにうまく行くと予想したのは誤りでした。そして益々テロ的活動は激化し手を焼いているように思われます。
日本はアメリカとの盟約もありNOとは言えない立場でしかも前回湾岸戦争の際経済支援のみに終わったことを諸外国から批判された経験から、今回は「イラクの復興を人道的に支援」するために自衛隊を派遣することを実行しました。これは国会でも認めらたことであり国としてはやむを得ない判断と考えます。
ここに人質事件が発生しました。そこはイラク武装集団とアメリカ軍が戦闘をおこなっている最も危険な場所です。死地に突入していくようなものです。ボランティアとしての善意の活動だから、またこの地域のより真実の報道をしたいから赴いた、と言って許されるとは考えられません。そしてイラクからの自衛隊の撤退を要求される結果になりました。国として多分に苦渋の選択をした派遣であったのに、彼らを救出する為に更に多大の努力を強いられました。水を差すような行為をしたのです。若者たちの(敢えて言いますが)軽率な行為が国の意志・行動を阻害する結果を招いたと思います。

イラクで誘拐されたあの人たちは「死」もあり得ると考えていたでしょうか?自分の命をどう思っているのでしょうか?「自分は自分、傍からとやかく言われることはない」というのでしょうか。私は私たちの「命」は勿論自分のためそして家族や自分を取り巻く共同体のためひいては国のためにあると考えています。そういう人々のためには死を厭わず進まねばならぬこともあると考えます。

時の首相をして「人間の命は地球より重い」と言わしめ、日航機をハイジャックした日本赤軍を超法規的処置で釈放しさらに身代金を支払ってテロに屈したダッカ事件、まことに恥っさらしな汚点を残したことを思い起こします。その後も世界各地で起こった同様な事件で人質に犠牲を出したこともありますが多くは犯人が射殺され或いは逮捕されて解決されました。それに比してこのダッカ事件の処理で日本はテロに弱い国というレッテルをはられ、世界の物笑いの種になりました。ですから自衛隊の撤退に応じなかった今回の政府の対応は評価できると考えています。

さて蛇足になるかも知れませんが、「命」については第二次大戦で若くして国のために散華した人々のことを思い起こさざるを得ません。私と同じ世代の戦陣に散った若者たちのことを思うと胸が張り裂けそうになります。こう言えば「そんな戦争を誰が始めたのだ」という反論がすぐ返って来そうですが、それには後世の歴史の検証が必要です。
そうです!そのような歴史の上に今の日本があり、そして我々日本国民の無事な日々があることをこそ忘れてはなりますまい。問題の若者たちは「命」はかくも重たいと認識した上での行動であったかどうか疑問に思います。

昨今「日本ほど自国民の中に反日感情を多くもった国は世界中どこにも無い」と言われます。そこに生をうけた私たちを大きな力で育み庇護してくれているのに何故そんな思いを持つ人が出てくるのでしょうか?本当にそんな感情を抱く人がいるとすればそんな人は日本を脱出されたら如何かと考えます。

今小学校では“歴史”は「社会」科目の一部として僅かな時間しか割り当てられておらず、しかもそこにはずいぶん偏向した内容が盛り込まれていると聞いています。
「日出づる国の天子、書を日没する国の天子に致す。恙なきや。……」という国書を隋の煬帝に送った聖徳太子の国を開こうとの高邁な思いは現代に至っては「知る人ぞ知る」でしょうか。靖国問題や先日の尖閣列島の件での政府の対応と考え合わせて不甲斐ない思いになるのは私一人だけではありますまい。
それだけではありません。北朝鮮の拉致問題は全く進展がなく家族の帰国がいつ実現するか不明で関係の人たちの気持ちを考えると苛立たしい気持ちになります。北朝鮮は日本をなめてかかっているのではないでしょうか。自衛隊を持ちながらその力をたてに抗することもなく経済制裁の発動も慎重に慎重にという有様、ただ6カ国協議によったのみ打開を図るという、北朝鮮はそのような日本の足下を見、日朝の政府間交渉にも誠意を欠く態度です。政府の無策を批判する国民は多いと思います。

戦後の自虐史観に彩られた教科書と日教組に害された教師の教育がそうさせているのでしょう。日本人でありながら反日感情を持つ国民が多いのはここに起点があると考えます。これを修正し、まっとうな歴史と日本の道徳観を教えること、ただ自己主張のみに走ることなく正当な国家観・世界観を持つように導くこと、そして自国のあり方に誇りを持つ国民を育成することが極めて重要なことだと強く感じている昨今です。
偶感 8                      2004年3月
パレスチナ、イスラム原理主義ハマスの車いすに乗ったヤシン師をイスラエル軍のヘリコプターがミサイルで攻撃して惨殺したとの報道がありました。まことに惨いことをするものです。国連をはじめ各国ともその非道なやりかたに反発しています。日本はいち早く非難を表明しました。確かにイスラム原理主義はテロの根源のひとつであり、その行動は国際社会では批判がしきりです。しかしイスラエル側は「もっとも危険な人間を殺害した」と主張して憚りません。そんな中、アメリカはイスラエルのあり方に一定の理解を示しています。これから「目には目を、歯には歯を!」で抗争はもっと激化することでしょう。
パレスチナではハマスの新しい指導者のもとイスラエルに対して今までにない規模の報復を誓い合っていると報道されていますし、一方イスラエルはパレスチナの指導者を皆殺しにするとまで言っています。全く悲劇です。このエスカレートする危険な対立関係はどうしたら救えるのでしょうか。

9・11同時多発テロでブッシュ大統領が対テロの戦いを宣言しました。以来、イラクを中心に中東紛争は益々混迷を深めているように思われます。さらに長きに亘るイスラエルとパレスチナの抗争がここに来て一段の激しさを加えました。
アメリカは中東地域を石油資源確保を含め世界戦略の一環として考え、またテロの温床がここにあるとして管轄下に置いて監視を強化しようとしているように思われます。
そんな中で日本はアメリカと同盟関係にあり、イラクに人道的立場から復興支援という形で自衛隊を派遣しました。

元来日本とアメリカでは中東に対しての活動は異なってあたりまえです。しかしわが国にとっての重大事は一にも二にも日本の産業構造の基礎となる石油エネルギーを安定確保することにあります。日本はエネルギー資源の90%近くを中東に依存しているのですからあたりまえのことです。
テロに立ち向かう術としての武力や軍事力を保有しないわが国としては日本はこれまで発展途上国にODAとして多額の援助をしてきました。この各国への援助は環境の改善であるとか開発の援助であるとか多くの分野に援助の手を広げてきたことは事実です。それはその地域での民生の安定に大きく寄与しているはずであり、それこそテロの温床をなくすことに役立っているのではないのでしょうか。そういう地道な努力があっての事だと思いますが、日本は幸いなことに中東諸国から好感を得ているようです。この信頼関係こそ日本が中東で守るべき国益でありましょう。

自衛隊派遣は国会で承認され国民的合意が得られたとしていますが、反対も根強いようです。私としてはイラク問題についてはその大義を云々するよりわが国の国益の点をもっと明確に国民に説明して欲しいと思っています。マスコミ等で自衛隊のイラク派遣に反対の立場をとる人たちは、何か事故か悲劇がおきて自衛隊がやむなく引き揚げるといった状態になることを期待しているむきがあるようですが、国益という事を考えればそれこそわが国の立場を台無しにする考え方であると思うのです。

そしてイラクに自衛隊が派遣されました。現実に自衛隊が派遣され現地での活動が始まってみますと、次第に国民の賛成も多くなってきたと報道されています。一つには派遣される自衛隊員の自己犠牲の危険があるにもかかわらず国としての決定に従って堂々と出かけていったことへの賞賛的思い、もう一つは現地での自衛隊の活動が他の国と異なってイラクの人々に認知され、期待を持って受け入れられつつあるやに見えるからであろうと思うからです。イラクの復興はイラクの人々自身が考えねばならぬ事ですが、そのお手伝いができてその復興が加速されればそれこそが日本として最も望むことではないでしょうか。そして1件の事故もなく全員無事に任務を終えて帰国することを期待しています。

視点を変えた話を述べましょう。日本は第二次大戦に敗れて以後、憲法によって戦争は放棄し、何かあればアメリカが守ってくれるという状態で今に至りました。平和な時代はそれでよいのですが、しかし考えて見れば自分の顔にとまった蠅をおっぱらうこともできないのです。独立国といえるかどうか?アメリカへの追随はやむをえない事かも知れませんがそれではアメリカの属国に成り下がってしまった思いがします。安保条約で決められているから一旦緩急ある時でも大丈夫という思いはひどく不安定であり、絵に描いた餅みたいに思われるのです。戦後半世紀を経た今日、戦争の悲惨を知る人は限られた世代の人のみになりました。若者たちに一旦緩急のとき国を守る意識が芽生えましょうか?いざとなったときアメリカは本当に日本を守ってくれるのでしょうか?大多数の国民の意識は戦後の教育によってもたらされました。戦争中は翼賛会とか称して戦争を煽った人たちが戦後はいち早く戦前のあり方を批判し、それを悪として糾弾する側に回ったのでした。教育は日教組に牛耳られ良識派は逼塞してしまいました。一夜にして正と不正が入れ替わりました。日本独自の歴史を正視せず自虐史観を正として唱える輩もいます。とかく日和見的な日本の外交はこのようなところに起点があるのではないかと考えられます。

今少し付言すれば、昨今急速に経済成長している中国などもはやODAの必要はないと思うのですが未だに続けています。その見返りとしての感謝の表明もなく、かつ事があれば靖国の問題を持ち出します。今回は中国の跳ね上がった連中が尖閣・魚釣島に不法にも上陸しました。しかし政府の指示があったのでしょうか強制送還という処置がとられました。我が国の領土に無断で上陸した連中を中国政府の恫喝ともとれる発言によって日本国家として何らの対策も無く退去させるというのは私には納得が出来ません。しかも尖閣諸島は中国固有の領土などと主張していますが多くの日本人は不快感を募らせています。

私は今、奇妙なことに昔習った「北風と太陽」を思い出しています。旅人のマントを脱がせようと北風と太陽が腕比べをする話です。結果は北風がどんなに強く風を吹かせても旅人のマントをはぐことはできず、暖かい太陽によって旅人は自ずからマントを脱ぐという寓話です。
冒頭に述べたイアスラエル・パレスチナの争いでは当事者が武力を行使して攻めあえば、いずれか一方が抹殺されてしまわなければ抜いた刃は収まりますまい。世界の警察をもって任じているアメリカがイスラエル側に立って判断しているのでは徒に北風をあおることになるのではないかと愚考します。アメリカがテロとの戦いを正当化しようとするのであれば、ここはイスラエルとの間に若干距離を置いて冷静に問題処理に当たるのが妥当ではないかと考えます。もしアメリカが民族的にイスラエルを支援せざるをえないとするのであれば収拾はきわめて困難であり、行き着く先は多分悲惨な結末になるのではなるでありましょう。
均等に恵みうぃもたらす太陽の暖かさを期待したいのは国連ですが、その力が余り期待出来ないのが残念です。

この混沌とした世界の様相の中で日本の価値を如何にあらしむべきか、難しい問題ですがもう一度今後の日本の外交は如何にあるべきかを考える時が来ています。
座して行動せず、ただ金でことを解決しようとする方法はもはや許されません。そんな国民の意識を変革するには教育改革を中心として自分中心の考え方から国家に対して個々人に何が出来るかということを考えさせることが肝要だということです。その個々の意志の総体を反映した外交が出来ればいうことはありません。

こんな主題について書くなど浅学の私にできるわけがありません。ただ日本人としての主張は主張として堂々と表明すべきではないか、いつも身を逼塞させて大国の顔色を窺うような卑屈な態度は凄く悲しい事に思えますので敢えて書いてみました。

偶感7     2004年3月
私は昨今の言葉の乱れを大いに憂慮しています。横文字の氾濫、あちらの言葉を日本語にしたカタカナ言葉〜昨年の衆議院選挙ではマニフエストが現れました。選挙公約と銘打たなくても公約でよく理解できるのに何故?あれは民主党の作戦だったのでしょうか。そんな新語がやたらと多いのに閉口します。それから「ネーェ、あの人のフアッションちょっとイカスジャーン、マスクもいいし」なんていう若者たち独特のイントネーションと新しい語彙……隠居の私は苦手です。

私たちの日本語の文章は象形文字で書かれます。それは見ただけでその意味することがおおよそ理解できます。詩や歌に詠まれた人間の感情や風景は日本独自のもので、なんとも言えない味わいが感じられます。色々な美しい文章を読んできました。古文、擬古文も多少強制されて学んだころは理解の程度も低くわかりにくく思いましたが、読書を重ねるうちに作者の心も感じられるようになりました。昨年秋数十年ぶりに平泉を訪ねました。それに先立ち芭蕉の「奥の細道」を読み返しました。

〈平泉〉
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。……略……偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を流し侍りぬ。
  夏草や兵どもが夢の跡

まさに一幅の絵を見る思いがします。そして芭蕉が古を偲び抱いた感懐を感じることができます。私も北上川を眺めながら頼朝に討たれた義経の悲しみを再び味わったことでありました。文中の「国破れて山河あり………」は中国の詩人杜甫の「春望」からの引用であることはよく知られています。そしてこの奥の細道で有名になりました。蓋し杜甫も長安の昔の盛時を偲んでこの詩を詠じたでありまようが、それは平泉で芭蕉が感じた感懐と類似したものがあったのでしょう。年代は異なっているとはいえ、このような感懐を詠っているのは東洋人としての類似した思いがあるからでしょうか。

私たちの時代、中・高校の教科書には源氏物語や枕の草子、徒然草などから又明治の頃の鴎外・漱石らの書いた作品からも引用がありました。しかしその後多くの文章を学び、それぞれの中から時代の背景をも教えられたものでした。日本の風物と人間の行動が一体となって文章に表現されているのです。文章は時代を写して我々の脳裏に蓄積されました。日本という国の根底にある、それを思想というのであればその思想が、我々の中に育ってきたように思います。そんな優れた文芸作品に巡りあい学ぶことが出来たことを有り難いと思っています。私は日本人として何より先ず日本の言葉を良く知り上手に使うことが大切だと思います。

つい先日報告された全国高校学力テストの結果によりますと国語は全体的には他の科目よりいくらか良い成績だそうです。しかし文章の内容は把握できても筆者の考えや意図をつかむことは不十分だそうで、自己主張はできるが相手の考えやその場の雰囲気をくみ取ったりするのは苦手、つまり自分勝手というか自分さえ良ければといったことが連想されるのです。

それから最近は大人も含めて手紙を書くことが少なくなりました。電話の普及があったからだと思います。さらに最近は携帯電話の出現によってこれがなければ夜も日も明けぬという人々が現れてきました。何でも安直に電話にたよりさらにこの携帯電話によって犯罪が引き起こされることもあるのですから怖いくらいです。もちろん若者たちは全く手紙を書かなくなったと言っても過言ではないでしょう。
電話の普及といってもそんなに昔のことではありません。それまでは時候の挨拶や身辺の近況報告、仕事のやりとりも大方は文書を書き込んだ封書でなされました。書くことで自然に文章に親しんだと思います。そんなとき辞書は必ず机のそばにありました。なにかあれば辞書をたよりにしたものです。そして字や言葉を覚えました。
そこへ外来語が容赦なくいりこんできました。日本語独自の流麗さは失われて行く一方です。きさびしく感じるのは私一人ではないでしょう。

前にも述べましたが戦後の教育で日本はその歴史、文化、思想を根底からひっくり返されました。それがアメリカによる洗脳だと書きました。国としての誇りは歴史、文化を学ぶことから生まれてくるものだと私は確信していますが、その誇りを取り戻すには先ず美しい日本語を取り返すこと、何よりも国語力の向上を図ることが極めて大切だと私は考えます。

さて話を高校の学力テストに戻しますと、高校生の学力の低下は歴然としているそうです。特に理数系はひどいようです。そうでしょう、学生・生徒は現在の世の中に飽き倦んでいるのです。そんな連中に平均的人間をつくることに主眼をおいた教育を実施したのではそうなるのが当然だと思います。
このテストでは生活態度に関する質問もなされたそうですが、学校以外では全く勉強しない生徒が41%、授業で分らないことがあっても「そのままにしておく」生徒が約35%といいますから我々の育った頃とは比較になりません。
また毎日朝食をとり持ち物を自分で用意する生徒は朝食をとらない生徒よりも成績は良いとなっていますが、この朝食をとらないというのは何を意味しているのでしょう。家庭では全く放任されているのか、子供の勝手気ままを許している家庭が多くなりつつあるのか、躾も何もあったものではないのですね。恐ろしい予感がします。

江戸時代、寺子屋でいわゆる「読み・書き・そろばん」が教えられその教育のおかげで明治初期の文盲率が低く、明治維新に多くの俊才が出て明治維新の大業を成功に導き以後の日本の発展に大きく寄与したことを考えますと、今こそよくよく参考にしなければならないと思います。
教育のあり方を間違えた戦後の指導層の責任はまことに重大です。教育基本法の改定が行われるやに聞いています。その機運ができたことは大きな進展だと思いますが、問題はその内容です。検討の過程によく関心をもち機会があれば意見を述べるべきだと考えます。
偶感 6                    2004年2月
「半落ち」が話題の映画と聞き数日前に鑑賞に行きました。観た人も多いかと思います。敏腕の警部が「3日前に妻を殺しました」と自首するところから物語が始まります。殺人の後の行動については黙秘して何も語りません。何故愛する妻を殺したか、その後の2日間はどうしていたか、その謎ときがこの作品のテーマになっています。ラストで明らかになる主人公の思いに心打たれましたし、また2日間何をしていたかの謎を解くのも面白いことでした。しかし重たい内容で鑑賞した後色々考えさせられました。すばらしい役者がそろっていていい作品になっているように思いました。

さてその役者はどうやって作品作りに立ち向かっているのか興味を感じます。
『昔舞台で不倫をテーマにした芝居を演ずることになりました。不倫は発覚すれば死罪という時代です。役をふられた役者は、実際に人妻のお茶やの女将に言い寄りその恐ろしさを実感して舞台で演じました。高名な役者に言い寄られた女性はそれが役作りのためであったと知り自殺してしまうという筋立てであったと記憶しています。この話は戯曲になっています。』
役者は役作りに命を削っているのでしょうか。
芝居を舞台に近い座席で観ていますと役者の息づかいが聞こえるように感じます。顔面に汗が光り、涙を流し…ホントに作中の人物になりきって、ほんのちょっぴりの動きにも意味があったりして…本物以上というのは妥当かどうか不明ですが……、もの作りという実業の世界に生きてきた私などには思いも及ばない技があります。現実にはないものをそれが如何にも真実であるかのように見せる、しかしそれは普通ではなかなか覗くことのできない人間の心の奥を見せてくれるのかも知れません。変な言い方ですが「ウソ」の世界を表現しているとも言えそうです。虚業という言葉がありますが、役者はこの範疇に入るのでしょうね。とにかく観客はそれを鑑賞して感激や感動を味わいます。
“実”のあるものに対して中身のないカラッポ“虚”…虚言、虚名、虚飾、虚栄、虚報などなど色々な言葉がありますがどれも実が伴っていない状態です。「虚」は私たちの頭の中に思考としては確かにあります。哲学は私には取っつきにくい学問ですが、それによって人生や世界の根本のあり方を理性に拠って求めようとする学問だと理解しています。それによって社会での人間の行動が律されるとも考えられます。また数学の発展は物理・化学など自然科学の分野に大きな貢献をもたらします。哲学といい数学といいそれは虚の学問だと私は考えています。そして虚は実を補うものであり実はそれによって発展もし力を得るとも言えると思うのです。

観客は「半落ち」を観て不運を背負った主人公に我が身を重ね合わせ取り巻く社会に憤りもしまた同情もするのです。事実に基づいた題材でも作品となれば監督なり作者なりの意図で物語として完結され、観客は製作者が観客に訴えたい思いを鑑賞するのです。
この映画を観て私は「まぁ、いいか!私の人生は…」といった感懐を覚えました。自分で言うのも如何かと思いますが、多分幸運な人生を歩んでいるのでしょう。
映画を観て、芝居を観て、もっと広く捉えれば詩とか歌とか絵とかそういう芸術というのは我々の現実にあるストレスを解消させ明日への活力を与えてくれるものであり、これこそは「虚」の世界の現実社会への貢献でありましょう。

さて国会開催中はその模様がテレビで中継されますのでその様子を見ることができます。問題は山ほどあるのに政策を中心に据えた論議がなされているのかどうか??疑わしくなります。大臣や議員諸侯は尻尾をつかまれないように言辞を弄し、国民にわかるような説明はなかなかありません。国民はいつもつんぼ桟敷に居る思いです。
道路公団民営化が華々しく打ち上げられ委員会が設置されて透明な進め方になることを期待していたのですが、結局は道路族議員の希望する線に乗っかってしまったようです。
高速道路新設に多額の予算を使う……民営化委員会ではその姿勢が批判され反論もあると聞いていましたのに、国土交通省はその道路新設を予定通り行うことにしたようです。持論に反するとして辞任した委員もあり委員会は殆ど機能しなくなりました。何のための委員会だったのでしょう。2、3日前、党首討論会で質問に対して首相はあの委員会は成功であったと胸を張っていました。ちょっと納得できません。
イラクへの自衛隊派遣について野党は一つ覚えの「その大義は何だ」と問います。それにたいして政府側は「戦争に行くのではない。人道支援に行くのだ。それは憲法違反ではない」といったやりとりがあります。大義論は既にすんだ話、それより国益の点を討論して欲しいと思います。また憲法の解釈ではすまされない点があるのなら速やか憲法改定に着手すべきでしょう。時間のかかることですから早ければ早いほどいいと考えるのです……。

「知らしむべからず、依らしむべし」の時代ではありません。国民ひとしく知って参画する権利があります。問題に対しての政治家(と称される人たち)が如何に自己を売り込むことに汲々としていることか、国会の場でのあの人たちの虚と実の使い分けのお上手なことには恐れ入ります。大事なのは自分だけ、国民大衆はいつも蚊帳の外です。
役者が虚を演じて観客を感動させるのとは雲泥の相異があります。政治家の虚は殆どが実のないハナシなのです。私は現役時代ある企業の責任者として努力した経験があります。株主への利益の還元を優先することは先ず必須ですが、それ以上に従業員に奉仕することを第一に心がけました。従業員にはいつも本音で社のおかれている状況を説明し協力を仰いだものでした。そこにウソは許されません。その記憶からすれば今の政治家がホントに国のことを憂慮し将来を考えているかどうか、選挙で一票を投じる前に、踏み絵といった方法でもあれば試してみたいと考える次第です。

小泉氏がはじめて首相に選任された時の施政方針演説に「米百俵」を引き合いに出して国家百年の大計のために今こそ改革を行うのだと述べました。物語の主人公は小林虎三郎(1828〜1877)という実在の人、長岡藩の武士でその地の文武総督に任ぜられています。兵火によりまた朝廷に敵対したこともあって藩の石高は減り日々の食べ物にも事欠く状況でした。その困窮した状況の中で、他藩から寄贈された米を分配して当座の窮状を救いたいとする人たちの意見を退け、将来の人材育成のために一時の困苦に堪えてその米を換金して国漢学校を建てたという逸話が残っています。作家山本有三がこれを戯曲にしました。平成13年9月歌舞伎座でこの演目が当代吉右衛門が主役となって演ぜられました。腹から絞り出すような声で若い藩士たちを説得する吉右衛門、それは眞に小林虎三郎になりきっての声涙下る演技でありました。たまたまその時、小泉首相も観覧していましたが終わった時目頭を拭いていたのが印象に残っています。「虚」は「実」に転化されたかと感じたことでした。
しかし党首討論会での虚々実々のやりとりにはあの歌舞伎座で見せた小泉さんの涙の底にあったものは見えませんでした。まことに残念です。小泉さんだけを俎上に載せて批判しているのではありません。このことは政治家の全てに言いたいことなのです。

映画や芝居に対しての礼賛が過ぎたかも知れません。本当は虚の世界の真実について語ろうと考えていたのですが……ウソから真実が見えることもあります。実像が必ずしも真の姿と言えないこともあります。私たちはそんな周囲の様子に目を凝らし何が正しく何が真実かを読みとることが大切だと思っています。
映画や芝居で教えられることも多いと感じたことでした。
偶感 5                         2004年2月
さきの大戦で一敗地にまみれて多くの都市が焦土と化しました。昭和20年に入ってからのアメリカ軍の空襲は執拗を極めましたが、迎え撃つ飛行機はなく市民はただ被害を被るのみで切歯扼腕の思いでした。東京は約8割が焼けました。大空襲の明けた3月10日朝、神田駅のホームから遮るものとてなく隅田川が一望された風景は今もなお鮮明に瞼に焼きついています。死者8万人、被災戸数26万戸、被災者100万人と言われています。
その廃墟の中から奇跡的と言える復興を成し遂げた日本国民の力は自負に値するものです。東京の街も再建され今世界の中で最も活気のある街の一つになりました。しかしその開発が計画的に為されていたらもっと美しい日本の首都ができていたのではないかと考えます。先日石原都知事が東京の町並みに感覚的に優れた都市計画はできないものかと一文を書いていましたが、全く同感です。

東京の街は今なお早いテンポで変化しています。いち早く高層ビル群が出来た新宿にひときわ高い243メートルの都庁が建設されたのが平成3年、その後渋谷周辺、六本木ヒルズ、そして品川地区と、ここ10年余の間に東京はまるで高さと斬新さを競うビル建設のオンパレイドです。超高層のビルの中には外国の有名ブランド品を売る店が並び、高級なレストランが幅をきかせています。それは利潤を追求する企業家に踊らされている姿かと思えてなりません。
また数多くの箱ものも作られました。東京駅に近い旧都庁跡には東京国際フォーラムが建造されました。中には超大ホール、大ホール、中ホールとありこれらが十分に機能を果たしているかどうか疑問です。都民としては東京のど真ん中にこんな巨大な箱ものを用意するよりも、なにか市民の憩いの場になるような工夫はなかったかと首をかしげてしまいます。税金の無駄遣いだと考えているのです。そんなことより街路の美観を著しく損ねている電線を地下に埋没させれば街の姿は目を見張るばかりに向上すると考えるのですが、如何でしょう。
日本の表玄関の東京をより文化の香りのある街にする工夫、歴史の温存を図る工夫、しっとりとした情緒を残す街作り考えて欲しいのです。

ヨーロッパを旅行しますと歴史の所産がよく保存されていてそれが訪れる人に感銘を与えている風景を屡々目にします。地域全体で住む人々の期待と希望をいれてそれぞれ独特の雰囲気を醸し出しておりそれを人々が誇りにしていると感じたものです。

数日前、友人と「谷中」界隈を散策しました。谷中は江戸時代の都市計画で多くの寺院が集められその門前町として栄えました。“寺と坂のある町”として親しまれています。
天気は快晴、起点は日暮里駅‥‥。幸田露伴の“五重の塔”で知られる天王寺、観音寺の築地塀、広大な谷中霊園にはキンモクセイの香がただよっていました。谷中ぎんざには時代を偲ばせる駄菓子屋、漬け物屋、小間物店などが立ち並び
しもたや風の家も見られます。幅1間くらいの横町には道半分くらい花の鉢を持ち出している家もありました。広い通りに出た角には酒屋(実際昭和60年頃まで営業)がありその土間には昔そのままに酒樽がおいてありました。じっと耳を凝らしますと絣の着物を着た子供たちや井戸端のおかみさんたちのはしゃぐ声が聞こえ、いなせな兄ちゃんが微醺をただよわせながら肩で風を切って歩く姿が見えるようです。

江戸の喧噪と武家社会の中で逼塞しつつも闊達な生き方を編み出していった庶民の様子、現在のアクセクした世の中では想像も難しい、厳しいこともあったのでしょうが“遊び心”のある暮らしがあったのでありましょう。江戸に花開いた文化はこんな所にその底辺があったのではないでしょうか。
そんな日本的情緒を感じさせる場所が東京にあってもいいのではありませんか。谷中をそぞろ歩いて江戸の昔を偲び、日本の文化をもっと大切に出来ないものかと強く感じたのです。

私は時折皇居お堀端のビルの8階にあるレストランで食事をすることがありますが、ここからの眺めが好きで訪れるのです。大内山と称される一帯の緑が目を楽しませてくれ食事も美味に感じられるのです。
再開発という名のもとに高層建築の贅をあらそう愚はほどほどにして欲しいものです。しかも観光の点からも歴史の跡を残し且つ近代にマッチした都市の景観を創りだしてもらいたいと希っています。
私は建築の専門家でもなければ都市計画を学んだわけでもありません。誰がこの東京という首都のバランスのある美観を考えているのだろう、偉大な為政者なり都市創造の専門家が出現しないものかと考えてこの文章を書きました。
偶感 4    2004年2月
この美しい日本の風土を私は改めてこよなく賛美しています。四季があってそれぞれに色とりどりの景観を見せてくれます。春の花、夏の雲、秋の紅葉、冬の雪、……各季節それぞれに趣があり、人々はその移り変わりの中に美を求め色々な景物を楽しみます。それらは日本の誇りとすべき文化であろうかと考えます。こんな美しい風土は地球上にはそう多くはありません。中にいるからそれが見えないのかも知れませんが、歳を重ねた昨今私はようやく実感できるようになりました。

先日新年を迎えました。年を越すについては土地土地に特有の色々な行事があります。昨今はテレビで放映されますので居ながらにして見ることができます。
江戸時代は(上流社会のことはよく知りませんが)町方では大晦日は商家では掛取りに、一般市民はその返済に追われるというそこでの悲喜交々が今は落語でよく語られます。明治維新で社会の仕組みが大きくかわったとは言いながら、江戸時代に培われた文化は現在にもなお息づいているように思います。

私が中学に入った頃、かれこれ60〜70年前になります。その頃にタイムスリップして我が家の大晦日から元旦の風景を描いてみましょう。
庭を掃き、家の中のすす払い、畳のふき掃除そして正月の飾り付け……玄関に門松、注連飾り、床の間に歳徳神を祭りさらに神棚・仏壇に小さいお飾りを供えます。
母はお節(せち)の用意に大忙しです。年始の来客のためまた3ケ日は主婦が台所仕事をしなくても良いようにあらかじめ惣菜をお重に用意しておくのです。多少の相異はあったでしょうがどの家庭でも行われていました。当時は冷蔵庫といっても氷で冷やす小さいものしかない時代です。なんでも保冷するというわけには行きません。お節は今はデパートの食品売り場、やスーパーでも手軽に買えますがつい先頃までは手作りだったのです。
皆で年越しそばを食べた後、ラヂオで除夜の鐘の放送を聞きました。そして就寝します。

元旦は起床は7時頃、先ず門に国旗を掲げます。ついで神・仏にお詣りして今年の加護を祈り、家族そろってお祝いの膳につきます。長幼序ありで家長の父から順に屠蘇をのみ雑煮をいただきます。これが我が家のしきたりでした。小・中学校は学校で新年の式がありますので登校です。学校ではご真影を拝し、教育勅語の奉読があり、一月一日の歌(年の初めのためしとて 終わりなき世のめでたさを 松竹たてて門毎に 祝う今日こそ楽しけれ‥‥)を斉唱して式は終わりです。それから初詣で近くの氏神に参拝して帰宅します。
やがて近郊に住んでいる親戚たちが新年の挨拶にやってきます。子供たちはトランプ・歌留多・双六に興じ、そこに少し年上の従兄弟も加わって百人一首がはじまります。元旦の夜はかくして更けて行きます。

7日は七草粥、11日は鏡開き、15日(だったと記憶しますが…)町内の広場でドンド焼きとういうのがあってお飾りとか門松とかを炊き上げるのです。その火で焼いた餅や藷をたべると年中無病息災に過ごせるといった言い伝えがあって参加したものでした。寒は立春まで前日の節分は豆まきの行事がありますがこれは今でも神社やお寺で広く行われていますね。

古いことなので詳細には少し違ったところがあるかも知れませんが、とにかく多くの事を学びました。「神仏を敬うこと」「正月のしきたりやその意味すること」「越年でけじめをつけ思いを新たにして進むこと」などなど……四季の景物はむろん越年だけではありません。春夏秋冬いずれの季節にもそれはあります。
難しい事は判りませんが、思いますのに日本は農耕民族であり自然にたいしての崇敬の念は強いものがあったのでしょう。自然の恵みにたいしての感謝がそういう人智の及ばない大いなる力それを神として敬ったと思うのです。日本人は宗教心をもっていないなどと言われますが、このように考えますと色々なしきたりも理解でき我々日本人の宗教観も判るように思います。日本のすばらしい文化の根本はこんな日常の生活に根付いたものだと思うのです。

しかし時代が変わるにつれてこのような行事も様変わりになりまたし忘れ去られたものもあります。ことに戦後はアメリカやヨーロッパなどのライフスタイルが多く導入されました。12月20日過ぎはクリスマス一色といってもいいくらい、年末の《もう いくつ寝ると お正月 お正月には凧あげて独楽をまわしてあそびましょ 早くこいこいお正月》と歌って待った雰囲気はなくなったようです。
飽食の現代、おせちなんて見向きもしない子供たちが多いことでしょう。多分現在の小学生に“新年”の語感から感じるものは何?と聞いても私が思っている正月とは大きく異なった意識を持っているのではないかと思います。日本の昔からのしきたりはどんどん廃れて行きます。我々大正・昭和初期の世代からしますとやはり寂しい気がします。

神仏を敬う、日本古来のしきたりを大事にする、親や長老からの教えを尊重する……昔の人々が自然を大事にし自然ととも生きて来たことの真実……を学び、また祖先への崇敬を抱くようになったのではないかと思います。日本の歴史の中で培われた美風(私はそう考えますが)に関心を寄せることは日本国民として大切なことと考えますが如何でしょうか。それが家庭内での教育であり躾という事かと考えるのです。
偶感 3             2004年1月
イラクへ陸上自衛隊先遣隊が派遣され活躍を始めました。自衛隊派遣について世論は反対が多いようですが、しかし昨秋の選挙でこのことも争点の一つでありました。結果は自民党が信頼されて決めたことと私は理解しています。

さて小泉首相は施政方針演説の中で中国の思想家、墨子の「義を為すは毀を避け誉に就くに非ず」」を引用しました。(われわれが道義を行うのは、それによって他人からそしりを受けないようにするとか、名誉を得ようとかのためではない、人間として当然のことを行うためのものである)。
この「義」は武士道では徳目の第一に挙げられています。辞書には物事の理にかなったこと、人間の行うべきすじみち、道理・条理とあります。これはよく知られていることで改めて紹介するまでもありません。
「信義」は約束を守り勤めを果たすことであり、「忠義」は主君や国家にたいして真心を尽くして仕えることです。私たちが社会生活をする上でもっとも心がけねばならない事だと思います。ラストサムライの主人公は義を果たすために働き、死にも敢然と立ち向かいました。また時代は変わっても歌舞伎で「忠臣蔵」を掲げると客の入りがいいと聞きました。「忠臣蔵」は人口に膾炙している忠義の物語です。世代によって「義」についての感性は多少の差異はあるでしょうがまだまだ日本人の心には「義」の精神は残っているのでしょう。そう言いながらも先日来の「オレオレ詐欺」などを見聞きしますと「義」なんていうことは存在していないのではないかと思います。「義」にたいしての理解など全く忘れさられているとさえ感じます。

墨子の言葉に関連して少し調べてみました。十八史略に「為にする所なくして為す者は義なり」とあり、中国戦国時代の思想家呉子は「暴を禁じ乱を救うは義なり」と言っています。墨子の意味するところと同じであると思います。そして同じ墨子が「天下の義を壱同す、是を以て天下治まる」(国の多くの人々の主張を一つにまとめる、それが国を治める者のなすべきこと)と述べています。

イラクの問題についてはこの「義」が何のための義かということが問題なのでしょうが、事は既に進行形をとっているのです。内輪の議論ばかりでは諸外国の顰蹙をかうことになります。
派遣問題が云々されて以来、テレビや新聞等に色々な人がそれぞれの観点から論評しています。小泉首相は演説の終わりに「世界平和のため、苦しんでいる人々や国々のため、困難を乗り越えて行動するのは国家として当然のことである」(これが義である)と敢えて述べています。派遣について国民の理解を得たいという思いが強くにじみ出ているように思いました。先行き不透明な難しい問題を国家としての立場を優先して決断したことへの苦衷がいかほどか推察します。が、さらに胸襟を開いて「義」について説明を行い国民的同意を求めるべきでありましょう。
自民党の幹部議員の中にも派遣反対の議員がいるようですが、すくなくとも自民党はこの事では一枚板であらねばなりません。それが国民の多くも了解するに至る前提かと考えます。
そして大方の同意が得られればイラクに派遣される隊員も意志を新たにして任地に赴くと思いますし又、彼らに国家社会の一員としてイラクで与えられた役割を十分に果たして無事帰国するように皆で激励して送り出すよう願いたいものです。(もう先遣隊は行ってしまい活動をはじめていますが……)

先ず駐屯するサマワ地区で基地を設営にあたるようですが、バクダッドその他では依然テロの攻撃が続いていて油断はできません。それに関連して新聞にまことに奇妙な事が書いてありました。防衛庁幹部が自衛隊先遣隊に発した命令に「実弾をこめる時期は別示する」とあったそうです。テロが襲撃してくるのに対して「実弾を装着していいですか?」を連絡、上官(最終的には派遣隊長)の指示があって初めて実弾装填の命令が届くという経過をたどるというのです。その間にテロリストはとっくに駐屯地に突入してきます。自衛はどうなるのでしょう?……全く笑話みたいです。

この状態での武器使用は当然許されると思うのですがここにも法の壁が存在するのですね。イラク特別措置法により「イラク復興支援と人道援助」遂行のために派遣された自衛隊のイラクでの武力の行使は「正当な業務行為」であり「その業務での行為は罰しない」という政治判断は示しておくべきだと考えますがどんなものでしょう?
隊員の安全を確保するにはこの最小限の武力行使は不可欠で、それが憲法違反だとして許されないというのでは動きはとれません。国会での野党議員の発言には過激なものがありました。しかし「ではどうすればいいか」という建設的提案はありません。
誰でも当然と考えられることがなかなか期待されるようにならないのは何故でしょう。国会の中で己の立場をアッピールしたいために、国家として如何にあるべきかの論議をないがしろにしていると思われるのです。こんな状況では国の行方は危ういと考えます。まさに墨子の「義を為すは毀を避け誉に就くに非ず」を忘れて利に走る人々になり下がっているのではないでしょうか?

舌足らずの論ですがアップいたします。しかし何ですね、小泉さんは前にあった米百俵の話といい今回の墨子といい古典からの引用を好まれるようです。ご本人の発意でしょうか?もしかしたら誰かそれを奨める陰の人がいるのではないかと、これはげすの勘ぐりです。それと私は自民党員ではありません。為念。

偶感 2      2004年1月  
新年を迎えてもう12日、成人の日です。テレビに成人式の様子が放映されていました。あでやかな和服姿の女性、成人式というより着初め式といったほうがピッタリです。私はこの晴れやかさとは対照的に、盛り場で異様な格好をしてたむろしている若者たち、電車の中で化粧する女子生徒、はては小言を言われたという理由だけで尊属殺人を犯す高校生…たちのことを考えました。数日前には女子高校生が同じ女子生徒をいじめ、売春を強要し金は巻き上げたとのニュースがありました。まったくどうなっているのでしょう。

少し前、と言ってももう2年くらいになりましょう。ゆとり教育が叫ばれました。「ゆとり教育」を行うため基礎的な知識を教育する時間を削って小学生にパソコンを教え、英語を教える、その上自由なゆとり時間を与えるのですから子供たちは喜ぶでしょう。学校がゆとりを与えた分、家庭での指導や躾教育が望まれますが、しかし親たちは生活に忙しいと言訳して子供と対話したり一緒に遊ぶようなことも少ないのではないでしょうか。
“子供は親の背中をみて育つ”は名言です。そこで躾がなされる筈なのですが……
殴られて大きくなった子供は力に頼ることをおぼえて暴力に走り、批判ばかりされて育った子供はいつも自分は良くて全て他が悪いという態度をとるようになります。ほめられればもう一度といいことをしたいと思う子供になるでしょう。家庭での躾の在りようで子供は変わります。      
「ゆとり教育」は子供たちに好き勝手を許し、はき違えた自由を許してしまったようです。そして今や親の権威は失墜し、また教師には次代を背負うべき若者を育てるという崇高な精神が乏しくなっていると感じます。“鉄は熱いうちに鍛えよ”は、先のことはその時点で考えるということにして、つまり先送りにしてしまったのです。

結果は学生の明らかな学力の低下であり非行の横行です。本も読まず、ゲームにうつつを抜かす小学生……こうして漢字の読み書きが出来ずかけ算の九九もままならない人間が生まれます。豊かな創造力など望むべくもありません。また社会生活をする上できわめて肝要な躾もできていない人間が世にでるのです。
この状態は戦後の教育に問題があったと思います。古来、日本にあった歴史・文化・思想がアメリカの占領政策で徹底的に否定されました。それに乗っかって日教組が横暴なまでにそれまであった日本の美風を否定したのです。戦後は修身・国史・地理の授業はなくなりました。「日本国民は軍部の思想に踊らされていたのだ」「責任は軍部にある」、アメリカは原爆を投下して一挙に大量の殺戮を行っていながらも「戦争を早く終わらせて日本人を軍部の圧政から救うために原爆を投下したのだ」と自国の行為を正当化しています。何もかも軍国主義のせいだと日本国民を洗脳したのです。
もともと農耕民族である日本人は温和でやさしくそれ故にかっての戦争(日清、日露戦)の時など捕虜をあたたかく遇しました。今次戦争では残虐な行為を行ったとして戦後の軍事裁判ではきわめて一方的に多数の善良であった日本軍兵士が処刑されました。そのすべてが事実であったとは思えません。にも関わらず未だに外交のカードとして謝罪を要求する国もあります。この事はアメリカを中心とする戦勝国の連中が今後は日本が二度と戦争を起こさないように、その見せしめのために行ったこと言って差し支えないでしょう。勝てば官軍、負ければ賊軍なのです。

戦後長く国旗の掲揚もなく国歌も歌えないという有様でした。いまだにその習慣?は続いていてそのことで校長が自殺に老いこまれたというニュースもありました。最近になっても外国に媚びをうって自説を評価して貰いたいエセ文化人がいらっしゃるようですがその扇動の成果でしょうか。そして先述した日教組の犯した罪はきわめて大きいと思いますが如何でしょう? 
この人たちには愛国心はないのでしょうか。自国を愛することのない人間なんてどこに居るのでしょう。この思い、わだかまりは戦後いつも私の胸にありました。何故かくも安易に日本人がその心を無くしてしまったのか嘆かわしい思いがします。

話が少し逸れますが私が不思議に思っていることがあります。昔私が小学生の時代は運動会では徒歩競争なり障害物競争等で一等・二等になった生徒は何がしか表彰され、それを励みに体を錬磨したと記憶しています。また呼び物として男子生徒では棒倒しや騎馬戦が行われました。運動が得意な生徒の活躍の場でした。
このような競技では相手に勝つことが求められます。こんな場を経て競争心を植え付けられたと思います。私が子育てをしている頃はまだ残っていましたが、昨今の運動会では競争では一等・二等はつけないそうです。また騎馬戦などは男女混合で行われると聞きました。いかに男女差別に反対する人が多いとは言えそれで競技になるのでしょうか。
何故? 競争心は世の中での争いの元凶というのでしょうか。……全て平等、平和を愛好し不戦を国是とする国だからでしょうか?昨今の外交上の諸問題を見てもそこは常に優勝劣敗の場と思うのですが如何なものでしょうか。私は自らの立場を主張し相手を納得させる、その精神構造には競争心は欠かせないと考えます。

それやこれや、教育の在りようを抜本的に見直さなければなりません。日本には長い歴史の間に培われた良き文化があります。それを次代に繋いでいく必要があると考えるのです。まず「日本を愛する」「日本人としての誇りを持つ」さらに「親を大事にする」そして「自分さえよければ」から「社会の為に、隣人に何か出来ることをする」という考えを教えることが必要ではないでしょうか。教育制度の改善は当然です。そこで親が子へ、教師が教え子に人間としてあるべき行動の規範を教える営々とした努力が望まれると考えるのです。

「何を今更」とお叱りを頂くかもしれませんが、私たち戦前に教育を受けた人間が皆教えこまれた「教育勅語」を見直しては如何と思っています。そこには我々が人間として実践すべき項目が列挙されているのです。
教育勅語は明治40年には英訳本が出版され欧米で高い評価を受けたと聞いています。それが戦後はこれこそ悪の根元とされました。先勝国とくにアメリカが、教育勅語に示された明確な愛国精神や奉仕・博愛の大切さがひいて狂信的な愛国心に繋がること、そこにある精神性の高さを怖れたためではないかと愚考しています。国内でも日本共産党はいまだにこの教育勅語について「命の大切さも、人権や平等の大切さも述べられていない。良いところは何もない。だから戦後国会で国民の基本的人権を損なうものとして排除が決議された」と言っています。ここには日本人として国家を愛する気持ちが感じられませんし、言い分はどうしても納得できません。日本という国家の一員であればこそこの豊かで文明度の高い生き方ができているのではないでしょうか。現在では一部の表現は修正する必要はありましょうが、しかしそれが軍国主義を育てたなどということは到底考えられません。

『親に孝養を尽くし、兄弟姉妹仲良く、夫婦は仲睦まじく、友達はお互いに信頼しあい、自分自身は謙虚に、多くの人に愛情をもって交わりなさい』さらに『学問に励み、仕事に精を出し、知識・能力を養い、人格を磨き、世のため人のため、公共のために役立つように、そして法律を守り、国家に大きな出来事があるときはそのために力を尽くしなさい』……個人を完成し、一家仲良く、世のため人のたに役立つことを願うというのが趣旨だと理解できます。
少し前テレビで「ワルシャワの秋」が放映されました。事実をもとにしたフイクションだということでした。ワルシャワはポーランドの首都です。ポーランドは周囲の強国に蹂躙されて、国家として存在しなかった時代が長くありました。物語は大正11年、故国がソビエトの支配下におかれ国民の多くが不毛の土地の開拓に従事させられました。残された子供は寒さと飢えで酷寒の地で助けを求めていました。ポーランドの元高官から日本赤十字社になんとか援助してほしいとの依頼がありました。これに応じて孤児たちを日本でしばらく保護し、本国に送ったそうです。その子供の一人は同じ孤児であった女の子と結婚して子供が生まれましたが、その当人は1944年ドイツの侵攻に対してワルシャワ市民が戦った「ワルシャワの蜂起」に加わって戦死しました。その後その子は成長してオーケストラの指揮者となって戦後日本を訪れ、赤十字の看護婦であった女性を、コンサートに招待し、父母が世話になったことに心から感謝するというストーリーでありました。日本が国としてまた人間として示した隣人への愛は感動的でした。
また国家がなければどれほど惨めなものであるかも描かれていてラストではついホロリとしてしまいました。ここにある博愛といいこれを実行した勇気といい、日本人の誰もが堅持していた精神であったと感じたことでした。それらは教育勅語に示された精神に他ならないと思います。

私たちの頃は小学校で修身という科目があり教育勅語に示された道徳観を教えられました。1年生の修身の教科書の目次を紹介しましょう。(本の通りカタカナ、旧カナ遣いにしました)
「  1,ヨクマナビ ヨクアソベ   2ジコクヲ マモレ
    3,ナマケルナ       4,トモダチハ タスケアへ
    5、ケンクワヲ スルナ    6、ゲンキヨク アレ
    ……………………    ……………………  」
私の道徳観はここから発していると思っています。そしてそれはその後の生き方に大変役立ったと思っています。その意味でこの修身に込められた教育勅語の精神を小学校で復活して教えてほしいと提唱し掲げました。
偶感 1    2003年12月
今年もあと数時間、気ぜわしい感じは例年のことです。すす払いや正月の飾りつけは私の役割で終われば後はTVを見たり何か手伝いを頼まれれば「ハイヨッ!」といった具合です。そんなひと時パソコンに向かい感じた事を書いてみました。 今年(2003年)は社会的にも実に多くの事件が起こりました。なかでもTVニュースで話題を抱えている組織の幹部が記者会見の席上「このような事になりましたのは私どもの監督不行き届きによるものであり、責任を痛感しております。深くお詫びいたします」というシーンが強く印象にのこっています。私が長く製造業に携わったせいでしょうか、最近の事故の多発が大いに気になります。先日三浦朱門氏が産経新聞に「日本社会のたるみ現象を懸念す」と題して過日のロケットの打ち上げ失敗を取り上げて「手抜きか気の緩み、少なくとも無責任体制になっているのではないか」との一文を書いておられました。まさに的をついた論評であると感じたことでした。

大戦で殆ど瓦礫と化した荒廃の中から国民が営々として努力し、高度成長期を経てGDPで世界第2位の経済大国にまでなりました。物つくりで立国したのです。先進国とくにアメリカを目標に追いつけ追い越せと技術面での追随進展はすばらしいものであったと、自分もその一翼を担ったという自負もあり誇らしく思っています。

戦後まもなく科学的管理手法が導入されました。それまでカンとかコツが重視されていた製造現場に、それらを一般化して誰でも比較的容易にしかも質のそろった品物を作るための方法として採用されたのでした。「品質管理」もその一つで私もかなりの期間製造現場へのその活用に腐心したものでした。「品質意識」の作業者への植え付け、実績の正確な把握、不良品の発生率のチェック、その原因の徹底した究明、組織上での役割分担の明確化、つまりPDCAの徹底(後述)などなどです。また専門的知識・技術についての切磋琢磨は当然として、必要な統計数学の勉強もしました。データーの解析も細かに行い管理図に表示して現場の一人一人にまで状況の把握を行わせたものでした。

作業者は全体の中での自己の役割をよく知り、なすべき事、絶対にしてはいけない事を十分に記憶し、さらに未経験の状態が生じた場合は経験者に知らせて対応するように繰り返し繰り返し教育指導したものでした。

この徹底的にということで私が全身全霊を傾けて努力した事に、安全管理があります。作業する人たちを災害から守り、安全を図ることは全てに優先する問題として心をくだいたものです。この事について昔「安全第一」と題して纏めた稿がありますので以下に示したく思います。

《安全第一》 

《その原点》
話しは古くなりますが第二次大戦の勝敗の帰趨も大方予想された昭和18年、私は大学に入学しました。入学後すぐ徴兵検査をうけ我々理工系は入営延期、文系学生は戦場に駆りだされました。その10月21日雨降りしきる神宮外苑で行われた学徒出陣壮行の分列行進を暗然とした思いでスタンドで見送ったのでした。

私はその後海軍の委託学生になり、金沢文庫にあった海軍の技術廠で特殊鋼製造の仕事に従事しました。忘れもしない昭和20年6月20日、夜勤を終えて帰寮したところに空襲警報、同室のK君と一旦は寝ようかと顔を見合わせたものの結局防空壕に避難しました。その日は艦爆で我々の寮が狙われました。10発余の爆弾がさして広くもない寮に落下しました。その瞬間の音と光芒のすさまじさ!警報解除で外に出て驚きました。壕の入口に直径10メートルほどのすり鉢状の穴があり、入口にいた2名は殆ど瀕死でした。

自分の棟にいってみると部屋に直撃弾が落ちていました。呆然自失、K君とは語る言葉もありません。その日は勤務には及ばずとなり空襲で破壊された建物の片付けです。同じ寮には勤労動員の中学生が100名ばかりいましたが当日の爆撃で20名ほど亡くなりました。少し荷物でも残っていればと跡を整理しましたが瓦礫ばかり、その中に頭蓋骨の一片、ちぎれた片足・・・・・・悲惨でした。死者を棺におさめ庭の一隅で荼毘にふしました。夜は火を消しトタンで蔽って敵襲に備えました。

戦争も末期、一億玉砕が叫ばれた時代、誰しも自分もいつかは死ぬという気になっていました。しかしそれはそれとして、どのような素晴らしい未来があったかも知れない若者たちが、運命というには余りにも無残な死を迎えたことに、私は非常に大きな懼れと戦争の冷酷な現実を見極めた思いでありました。

やがて終戦、私は日本製鉄に入社、戦後の無気力な世相と食糧難を北九州・八幡の地で経験、製鋼作業に従事しながら数年が過ぎました。

それは昭和29年7月の梅雨明けのある暑い日でした。私はその4月掛長を命ぜられ末端管理者として研鑽に明け暮れていました。勤務を終わって通用門まで歩く途中でした。近くを数本の線路が走っており、材料を運搬する貨車はこの線路を走ります。通用門の近くから線路はカーブしていて見通しが悪くなっています。と、向こうから機関車が後尾にあって貨車を推進する状態でやってきました。線路がカーブしていますから機関車からは多分前方は殆ど見えず、機関車の運転手は貨車の先頭にいる合図方の合図を見て運転していたと思います。

そのカーブの場所で線路の修理作業が行われていました。見えにくいこともあってか機関車は何度も警笛を鳴らします。しかし線路工夫の連中はなかなか気がつきません。

貨車の先頭に乗っていた合図方が彼らに気がついて大声をあげた時は、貨車と線路工夫の間はすでに10メートルあるかないかでした。一番遅れて貨車の進行に気がついた一人が逃げようとした時はもう遅かったのです。車輪に巻き込まれました。まったく無残でした。転轍工の合図で貨車が止まるまで、その人はまるで丸太でも転がすように二転三転しながら、胸の上、腹の上を轢断されました。ついさっきまで元気に仕事をしていた人がほんの数十秒後には、いくつかの肉塊となって横たわってしまったのです。その人にはむろん家庭があり奥さんは夕食の支度をして待っていることでしょうし、子供たちも一家団欒でのお父さんとの会話を楽しみにしていたでしょう・・・・・・。私は震えの止まらない状態でそこに立ちつくしていました。その日は夕食もとれませんでした。

〈こんなことでどうして人は死なねばならいのか?大量の殺戮が演じられた戦争は終わっているのに、そして皆が平和で健康でありたいと願う時代なのに、あの人の死はあまりにも偶発過ぎる。人為的とも思える。
「何かが欠けている」 「こんな死は絶対に起こすべきではない」 〉

この日の情景は今も脳裏に鮮明に焼き付いていて、そしてこのことが私の[安全第一] への大きな動機になりました。物的事故は修復可能だし金で購うこともできます。しかしこの生身の身体は再び甦らすことはできないのです。

私は多くの部下をあずかり彼らの働きで仕事の成果をあげているのです。その部下を死にいたらしめるようなことがあって果たして業績があったと言えるのでしょうか。
[絶対に死亡災害は出さないぞ!否、無災害を目標に努力しよう!]と堅く心に誓ったのです。

《無災害の実現へ》

そのころ“1:29:300”という数字が安全の合い言葉みたいになっていました。災害統計の分析結果出された数値と聞きました。1件の大きな災害のかげには29件の軽症の災害、さらに300件の「ひやっ」とする未実の事例が起こっているというのです。これは災害が目に見えるものとして発生するのは海面に浮かぶ氷山の一角であり、この一角を無くすには海面下の氷の大塊を溶かしてしまわねばならないことを示しているのです。大変な難事です。しかしこれを解決しなければ災害を皆無にすることは出来ないというわけです。

* 安全帽のあご紐は必ず締める。
* 安全通路を定め、歩行は原則としてこの通路を通る。
* 肌の露出は火傷につながる・・・・・・短袖シャツ着用を厳禁する。等々

今思えばそんな事が・・・というような状態にあったのです。このような基本的事項を守ることは当たり前のことですが、しかしたとえば安全帽着用すら全員に徹底するのには時間がかかりました。「重たい」とか「面倒だ」とか言って着用を嫌うのを「君たちを怪我から守るためなんだ」と説得して着用を求めました。ですからあご紐を締めるようになるのにはさらに時間を要しました。

作業者との話し合いもずいぶん行いました。手をかえ品をかえ・・・・・・年に100回を越えました。そのころイザヤ・ベンダサン著の「日本人とユダヤ人」が本屋に出回りました。その中身を参考に次の話をしたこともありました。

『ニューヨークの超一流のホテルで爪に火を灯すような生活をしているユダヤ人に「何故こんなデラックスなホテルに泊まるのか」と質問したら「ここは安全だから」という。このホテルは国賓や著名な外人も泊まるので警察が常時特別の警戒をしているし、ホテルとしても警備を怠らない。ここより安全なところはない。生命の安全が何より大事だ。この本にはさらに「日本人は安全と水は無料で手にはいる」と思い込んでいる。水のないところでは水の価値はコップ一杯が1万円にもなるかも知れない。安全も水も同じではないか。安全だって金で買える部分があれば金を出して買うのは当たり前」だと著者は述べている。この話の中の安全は我々が問題にしている主題とは少し意味が異なるが「生命は何よりも大切」という考えは心に刻むべきである。・・・・・』

参加者にも意見を出してもらって意識の高揚を図ったのです。我々は誰でも「自分が災禍に遭遇したり怪我したりするまでは、自分は絶対にそんなことにはならない」と決めてかかっています。交通事故にあったり怪我をした人を見ると「あいつは運が悪かったんだ」とか「あいつはボヤッーとしてるから」などと陰口をたたく人もいるのです。

災害を分析してみますと「不注意であった」「安全教育が不足していた」「整理整頓が悪かった」「仕事に不慣れであった」などの原因が往々挙げられます。しかし整理整頓がよくても仕事になれていても災害は起こることがあるのです。自分のしたことが他に思はぬ災害を及ぼすこともあります。反対に自分が他からそういう目にあうかも知れません。

「ある工場で起重機の修理をしている途中で昼休みになった。修理工は昼休みの間は誰もやって来ないだろうと考え、手にしていたスパナを起重機の階段のはしに置いたまま食事にでかけた。しばらくして運転工が用事があって運転室にあがって行く途中、階段においてあったスパナに足を引っかけ、下で話をしていた別の作業者の肩に落ちかかって大怪我をしたという。」

これは実際に起こった事例です。こんなことだって起こりうるのです。

* 危ないと思ったら逃げろ!
* 危ないと思ったら仕事は中断してもよい!
* 逃げ場を考えて仕事せよ!
* 荷を吊ったクレーンが頭上にきたらただちに待避せよ!
* クレーンの運転手は下に人がいたらクレーンを止めろ!
* いつも自分のそばに君の子供がいると思って作業せよ!
* 安全を無視した仕事の能率は眞の能率ではない!

こんな注意を呼びかけ、繰り返し繰り返し、注意を喚起しました。一歩一歩、全く長い日々でした。

そうこうして2年ほどしたある日、夜遅く工場から電話です。こんな時間の電話は事故か災害の連絡以外にはありません。案の上、事故です。報告の最後に「ただし人的災害はありませんでした」とありました。熔けた銑鉄(約摂氏1400度)を入れた鍋(重量60トン)がフックから外れて落下したというのです。これはもう大変なことです。すぐ工場に行きました。鍋が地面に転がりあたりには熔銑が散乱しています。昔風に表現すれば「阿鼻叫喚、地獄もかくありやというべき惨状」といったところです。詳細に報告を受けましたが幸いなことに一人の怪我人も発生していませんでした。全くホッとして「あぁ待避の徹底が浸透したなぁ。やっと皆に安全意識が行きわたったなぁ。」と安堵感を一人胸にかみしめたことでした。

莫大な損失であり上司に始末書を提出しました。その時上司は「あのような事故を起こした責任は重大であるが、災害者を一名も発生させなかったことに免じて大目にみることにする。今後2度とあのような事故を起こさないよう厳に注意せよ」との叱責がありました。

私はこの工場に在勤中、安全成績は多くの工場の中でもいつも最高のレベルにあり数々の表彰を受けました。今なお密かに誇りにしています。

話を品質管理に戻します。品質管理ではPDCAのサイクルをまわすことが求められます。

 P(プラン):計画する。
 D(ドゥー):実行する。
 C(チェック):結果を調べる。
 A(アクション):分析して要すれば作業標準を見直す。

品質の安定した製品を顧客に届けるためには欠かせないのであり、ここにも繰り返し繰り返しが必要なのです。安全推進と同じでこの繰り返し繰り返しが大切なのです。

冒頭の再録になりますが昨今、事故とか不祥事が起こりますと企業のトップがマスコミの会見場で頭を下げて釈明に当たります。その様子を見ますと何ともやりきれない思いになります。しかしその対応や釈明を見てあれでは事故の撲滅は困難だと感じてしまうのです。お前だったらできるかと言われれば、その確約は出来ません。しかし安全推進や品質管理の私自身の経験から、関係者への徹底した教育を行えば防止は可能だと私は密かに自負するのです。考えてみますと追いつけ追い越せの成長時代、皆が豊かになり高度な文化的生活を享受することを目指した時代、天然資源には恵まれていない我が国としてはもの作りとくに付加価値の高い製品を作ることこそが世界の中での日本の役割だと国民挙って前進したのです。それが実現して経済大国になりました。しかしその後、バブルがはじける頃にその萌芽は見えていたのですが、どうやらもの作りの心構えがなおざりにされてきました。言葉は悪いのですが社会全体がやや傲慢になったのかも知れません。GDP世界第2位になったことで安心しきったとも言えるでしょう。

経済の停滞は未だに続いており政府は躍起になって再生のかけ声をかけています。しかしタガがゆるんでしまっているようです。「笛吹けど踊らず」でかけ声だけでは一旦ゆるんでしまったタガはしまりません。組織とそれを構成する人々の意識のゆるみを緊張させる以外に方法はないと思うのです。それにはまた長い時間と真摯な努力が必要とされるでしょう。しかしそれこそが事故や不祥事を根絶する一番の近道だと考えるのです。成長の時代に根付かせ根付いていたもの作りの基本を忘れてはならないと思うのです。

さらに組織の運営は時代の変化に応じその組織に求められているものを全員がよく把握し柔軟に対応しなければなりません。これを怠れば組織は硬直化して社会のニーズに応じられなくなるのではないでしょうか。ここにも”管理する“ことのの理念であるPDCAを常にまわすことが要求されるのです。組織のトップから末端まで組織の目標達成のために一丸となって当たらねばなりません。組織の長がそこで行われている実体を知ることが求められるのは当然でしょう。とにかくゆるんだタガをもう一度しめなおしましょう。